梅棹忠夫の文明の生態史観に学ぶ |
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2019年12月12日
人類の男の本来の闘争とは何か?⇒「対象の全容を少しでも解明したいという」静かな闘志、それが未知収束
現在人の闘争とは何か?⇒「対象の全容を少しでも解明したいという」静かな闘志が戦うモチベーションに繋がる。それが未知収束の心根にある。
哺乳類はオスメスの性差をさらに強化することで進化してきた。人類はその進化の最終位置にあり、当然オスは闘争に特化し、メスは生殖=性に特化した。ただ、人類のオスの闘争は他の哺乳類が成した縄張り闘争発の性闘争とは異なる。これが何なのかをこの間ずっと考えていたが、少し見えた処があったので記事にしておきたい。将棋の世界は勝負が常にあり、まさに文字通り闘争の世界である。そこの第一人者に長く存在している羽生善治の言葉がある。闘争とは何かがその中にあるのではないか、探してみた。
羽生善治著の「闘う頭脳」という著書から紹介してみたい。対談形式でインタビュアーが羽生さんは目標という事をどのように考えておられますかという平板な質問に対して答えている、その中に現れた。
「ビジネスの世界の方々は目標を設定するところから始まるのかも知れませんが、私の場合は、何かと戦うという個別の目標を立てて進んでは来なかったんです。特に棋戦―直近でいうと4月からの名人戦とか、6月からの棋聖戦―をどうやって勝つか、というような目標設定はあまりしていないんです。スケジュール調整は半年先くらいまで進めていきますが、将棋の戦術的な面は日進月歩、1週間単位で更新されて進化していきますから、数ヶ月先の対局の事をいま考えても仕方がない。もちろん将棋の戦術については気にしていますし、常に新しいものを探しています。そういう日常の営みの中で少しずつ考えていくというところですね。数ヶ月後の名人戦を「こう戦おう」といま戦術を考えても、そのまま戦ってうまくいく事はまずありません。ですから今年はこのタイトルを獲ろう、とか誰に勝とう、という事はまずありません。ですから、今年はこのタイトルを獲ろう、とか誰に勝とうとかというような目標の立て方は私の場合はしないですね。
(中略)
とは言え、30年ずっとプロ棋士を続けてきたわけで、その理由がなにかと考えてみますと「将棋の全容を少しでも解明したい」という静かな気持ちはあります。あえて言えば、これが棋士を続けるモチベーションになっているのかも知れません。将棋の解明が難しいということはよく認識しています。将棋の局面の可能性は10の約220乗通りあるといわれています。そのうち、この目で見ることができるのは0.1%もないでしょう。それでも少なくとも自分が対した局面については、できる範囲で突き詰めたという気持ちはあります。対局で未知の局面に出会った時は、感想戦(対局のあと、対戦相手と一局を振り返り、双方の指し手を検討する事)で、ある程度の結論を出さないと気分が悪い。若いときからそれは変わりませんね。一つの局面を考える事で、新たな問題が出てきて、さらにその対策を考え、そこに次ぎの対抗策が・・・、とそんな事を毎日考えながら、30年が経ったという感じです。」
羽生さんの言葉は柔らかく、好奇心とは追求心とか探究心などという言葉に変える事ができるかもしれないが、あえて彼の言葉をそのまま使いたい。
★「将棋の全容を少しでも解明したい」という静かな気持ちはあります。
★対局で未知の局面に出会った時は、感想戦で、ある程度の結論を出さないと気分が悪い。若いときからそれは変わりませんね。
★一つの局面を考える事で、新たな問題が出てきて、さらにその対策を考え、そこに次ぎの対抗策が・・・、とそんな事を毎日考えながら、30年が経った。
羽生氏の闘争とは「対象の全容を少しでも解明したい、掴み取りたい」という意識であり、相手と闘って勝つというのは2の次なのだ。この心のありよう、ワクワク感や子供時代と変わらない意識、が実に様々な世の追求者と一致する。言い換えれば赤ん坊の追求とはまさにそれで、世の中に生まれ出て、次々と登場する事象や対象を“少しでも解明したい”という気持ちでほぼ無意識に毎日なんで、なぜを繰り返す。
以前、実現塾で語られたくだりを思い出す。
赤ん坊は100パーセントが追求者、皆一度は追求者であった。大人になって追求心が曇り、ワクワク感や未知追求への意欲が減じていくが、稀にわずか2,3%の確率で、赤ん坊の頃の追求心を大人まで延長した人が居る。それが成功者や事業の勝利者に多いのは彼らが真の追求者であったからだ。凡人は前例のない難しい仕事や難課題を向えると頭を抱えるが、真の追求者は未知課題を向えると活き活きと逆に闘争心が湧いてくる。羽生氏が言うように新たな問題が出て、さらにその対策を考え、そこに次の対抗策が・・・と次々と向っていく。
人類のオスの闘争とは何か、未知なるものへの挑戦である。現代的な課題に置き換えると、既に回りには未知なるものは山ほどある。真の追求者にとっては宝物の中で生活しているようなものだ。それを宝物と思えるかただの石ころと思うかはその人の闘争心にかかっている。
未知収束の心根とはこのような処ではないだろうか?
投稿者 tanog : 2019年12月12日 TweetList
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