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2020年12月30日

木柱列と環状列石の制作は、かけがえのない縄文人の仕事だった。

縄文時代の遺構には、日常生活に関わるもの(住居跡や墓など)とは別に、ちょっと現代人には理解不能な、長い時間と労力を注いでムダなものを造ったとしか思えないものがあります。それらは苦し紛れに「モニュメント記念碑)」と呼ばれていますが、決して何かの記念に建てられたことがわかっているわけではありません。わかっているのは、それらがどうも、実利を目的として造られたのではないこと、しかもその規模たるや、途方もない年月と人員、労力を要する大層なものばかりであること、それ故に縄文人にとってはとてつもなく大切なものであったらしいということだけ

モニュメントには、環状列石配石遺構と呼ばれる石を並べたもの、木柱列と呼ばれる木を並べたもの、そして盛土と呼ばれる土を盛ったものがあります。日本の歴史上もっとも長く平和な時代が続いたと言われる縄文時代、戦争やお金儲けを尻目に、人々が大真面目に取り組んでいたらしい「モニュメント」とは一体なんなのか

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warkuwebより

【謎の傑作モニュメント(1)木柱列】

「東北の縄文銀座」こと、三内丸山遺跡は、数ある縄文遺跡の中でも圧倒的な遺構と出土品の数を誇る、まさに「銀座」と呼ぶにふさわしい大規模な集落跡です。三内丸山遺跡を一躍世に知らしめることになったのは、集落で見つかった6基の巨大な柱跡。穴の大きさは最大で直径2m、深さも2m近くに及びます。

各穴の底から腐食を免れたクリの木が見つかったことから、6基の穴には巨木が建っていたと見られています。

まず、これだけの巨木を6本も伐り出すだけでも大変なのに、それを所定の場所へ運び、加工して、2mの深い穴を掘った上でまっすぐ立てる、という作業をすべて人の手で行うのです。尋常じゃない数の人手、労力、時間をかけるに値する彼らなりの言い分があるはずです

三内丸山の木柱列は全国でも最大規模ですが、前期の阿久尻遺跡(長野県)、晩期の真脇遺跡(石川県)などでも見ることができます。

縄文人の言い分を知る手がかりは、木柱列の建てられた場所と、その配列にあります。柱の間隔は等間隔(4.2m)で、極めて几帳面に3本ずつ2列に並んでいます。考古学者の小林達雄氏によると、なんとこれらの配列は、二至二分(春分・夏至・秋分・冬至)を知るための日時計として作用する仕組みになっているといいます。

驚くべきことに、3本ずつ並んだ柱の延長線上に立つと、夏至の日には柱のちょうど真ん中に日が昇り、反対側に立つと、今度は冬至の日に柱のちょうど真ん中に日が沈むのだそうです。それだけではありません。縄文人は春分と秋分も意識していたといいます。6本柱のどこに立つかによって、夏至、冬至、春分、秋分の時、柱と柱の間にちょうど日が昇ったり沈んだりするように設計されているのです

生活のすべてを自然の恵みに頼っていた縄文時代、二至二分がわかるというのはとても重要なことでした。季節を少しでも間違えれば穫れるはずの獲物が穫れなくなったり、採集できるはずの木の実類が採集できなくなったりするからです。しかし、木柱列がただの日時計ならば、こんなに巨大な木を時間をかけてわざわざ伐りだしてくる必要はなかったのではないでしょうか。造設に多くの時間と労力を要する壮大な木柱列には、実利以上の何か大きな意味があったに違いありません

ここで多くの研究者が指摘するのは、縄文人の太陽信仰です。洋の東西を問わず、人類は有史以来、「」の象徴として太陽を神聖視してきました。太陽は毎日東の空に「生まれ」、西の空に「死んで」いきます。また一年のうち最も日の長い夏至は、最も「生」の力が強い時であり、反対に冬至は、最も「死」の力が強い時、春分・秋分はそのバランスが調和する日です。自然の循環サイクルをよく知っていた縄文人は、太陽の循環に生命の循環を見いだしていたのかもしれません。

富士山に太陽が昇ったり沈んだりする時、その光が山頂にかぶり放射線状の光が現れる様を通称「ダイヤモンド富士」と呼びますが、実は三内丸山遺跡でも、同じような現象を見ることができます。

2列に並んだ巨大な3本柱のど真ん中に、ダイヤモンドのように美しい光が突如現れる瞬間を想像してみてください。さぞ、神々しいことでしょう。三内丸山の縄文人はこれを夏至の日出、また冬至の日没に拝んだに違いありません。巨大な木柱列は、太陽を「ただ」拝むのではなく、もっともドラマチックかつ神々しい形で拝むことができる傑作なのです。

【謎の傑作モニュメント(2)環状列石】

縄文人が、二至二分を意識して作った装置は木柱列だけではありません。むしろ、より多くの遺跡で見つかるのは、ストーンサークル(環状列石)です。世界で最も有名なストーンサークルは、世界遺産にもなっているイギリスのストーン・ヘンジでしょうが、ストーン・ヘンジの造設とちょうど同じ頃、縄文人もまた、同じようなものを造っていました。

イギリスのストーン・ヘンジ。ストーン・ヘンジもまた、夏至の日の出と冬至の日没を観測する装置であったことが指摘されています。

日本で最も規模の大きい環状列石は、円周の直径が50mにも及ぶ大湯遺跡(秋田県)です。野中堂環状列石・万座環状列石の2つから成り、その中心点の延長線上には、それぞれ日時計状の組石も造られています。

使用されている石の数は、全部で7200あまりに及ぶといいます。それもそこら辺の石ではダメなのです。わざわざ7kmも離れた川の上流から、腰を痛めそうなほど大きな石を運んできて(中には150kgを超す石も!)並べているのです。おそらく長い時間をかけて、それも10年とか20年ではなく100年とか200年という途方もない時間をかけて、せっせと石を並べていたのです。何世代にも渡って引き継がれていく、サグラダファミリアもびっくりの「長期」計画です。

木柱列同様、環状列石もまた、太陽の動きを確実に意識して造られています。大湯環状列石では、2つに並んだ万座・野中堂環状列石の中心点、およびそれぞれのそばに設けられた日時計状組石の延長線上に夏至の日没を臨むことができます。

しかしやはり、作りたかったのが「ただの」日時計ならば、何百年もかけて、7kmも離れた遠くから大きな石を運び続ける必要はなかったはずです。彼らが石をただただ並べ続けるモチベーションには、何か壮大な理由があったに違いありません。

日本各地でみつかる環状列石の多くが、太陽と山の関係を計算してデザインされているといいます。環状列石のある地点から、近くの山にちょうど太陽が落ちたり昇ったりするのです。たとえば群馬県の野村遺跡からは、冬至の日にぴったり妙義山へ落ちていく太陽を見ることができます。あるいは山梨県の牛石環状列石では、春分の日の日没を、ちょうど三ツ峠山の峠に臨むことができます。縄文ランドスケープでは、二至二分の特別な日、太陽は山から生まれたり、山に還っていったりするのです

ありとあらゆる動植物が生まれ、鉱物が育まれる山は、生命の故郷です。縄文人は山に対して並々ならぬ思い入れがあったようで、環状列石に限らず、モニュメントの多くが山を見渡せる場所に造られています。それもただの山ではなく、現代でも聖地とされるような、均整のとれた美しい山を選んでいるのです。生命の循環の象徴としての太陽が、命の故郷である山から生まれ、山へ還っていく。縄文モニュメントは、そういった縄文人の世界観を可視化する装置だったのかもしれません。

【縄文人、ヒマすぎる問題】

一説によると、縄文時代の労働時間は1日平均4時間だったといいます。もし縄文人がもっと実利主義だったら、もっとずっと早くに水田稲作を始めていたかもしれないし、もしかしたら国を作って隣国まで領土を広げる、なんてこともしていたかもしれません。しかし、縄文人が1万2000年の間に大真面目に取り組んでいたのは、こともあろうか、実利には直接結びつかないクリエイティビティでした。縄文人の創造性が遺憾なく発揮されたそれら奇想天外な遺物は、土器や土偶にしても、モニュメントにしても、3000年以上たった現代においても傑作と称されるものばかりなのです。

投稿者 tanog : 2020年12月30日 List  

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