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2015年02月19日

地域再生を歴史に学ぶ~第9回 廃藩置県は何を変えたか

前回は江戸時代を扱いました。江戸時代はお上と大衆、政治と生活が実にバランスよくかみあった、地域社会にとっては物心ともに豊かな時代でした。日本人の縄文資質を見抜いた徳川の眼力の賜物とも言えますが、弥生時代以降では縄文資質が開花した最初の時代でもあったとも言えます。今回はその江戸社会が市場化、近代化という世界的潮流に飲まれて変化せざるを得なくなった明治以降を扱っていきます。

さまざまな制度、序列、日本人の意識が転換し始めるのですが、最もそれを象徴したのが廃藩置県だったと見ています。この廃藩置県を知る事で時の為政者の意図、それに飲み込まれた武士や大衆の意識を見る事ができるように思います。

今回は司馬遼太郎の『明治という国家』より引用、要約した文章を紹介しながら考えていきます。

image1こちらよりお借りしました

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>明治四年(1871)の廃藩置県。この日本史上、最大の変動の一つについてお話します。これは、その四年前の明治維新以上に深刻な社会変動でした。 同時に、明治維新以上に、革命的でもありました
大変なものでした。日本に君臨していた二百七十の大名たちが、一夜にして消滅したのです。士族—お侍さんですね—その家族の人口は百九十万人で、当時の人口が三千万としますと、6.3%にあたります。これらのひとびとが、いっせいに失業しました。 革命としかいいようのない政治的作用、外科手術でした。これが他日、各地に士族の反乱をよび、また西南戦争(明治10年)という一大反作用を生む撓みになりました。ところが当座はじつに静粛におこなわれました

 廃藩置県の目的は何か
新政府指導者たちにとって、官軍を構成する武士階級がこれまで持ち続けた討幕・攘夷エネルギーや武士としての既得権を失うことへの不安を新国家建設の方向へ転換させ、同時に各藩がもつ領民の徴兵権と徴税権を新政府に移行させるということを、いかにその不満爆発を防ぎながら円滑に行うかが最重要課題でした。

 二百七十年余にわたって続いてきた制度を根本から変えるというこの社会革命は、当然藩主の抵抗も予想され、徐々に変革を進める必要がありました。そこで先ず藩主から朝廷に版籍(領地と領民)を奉還させ(明治2年:版籍奉還)、その上で藩主を知藩事に任命し、さらに彼らの家禄を石高の十分の一に定め、各藩の藩政と家政を財政面から完全に分離させ、藩士を「士族」とすることで藩主―家臣の主従関係を完全に絶つことから実施しました。
また、新国家建設のため鉄道などの基盤整備事業が実施に移されると同時に、逼迫する財政事情に耐えかねた財政基盤の整備が火急の課題でした。徴税制度の確立を急ぐためにも完全なる『郡県』の実施、すなわち廃藩置県を求める動きが高まったのです。山県が反対する西郷を封じ込め、廃藩置県は結果的に薩摩藩をもふくめほぼ無血におわりました。

 春高楼の 花の宴 めぐる盃 かげさして 千代の松が枝 わけいでし むかしの光 いまいずこ
(中略)
天井影は かわらねど 栄枯は移る 世の姿 写さんとてか 今もなお 嗚呼 荒城の夜半の月~滝廉太郎作曲の『荒城の月』の詩(土井晩翠作詞)


この詩人と音楽家の二人の想念にあらわれた『荒城』は、いずれも、明治四年の廃藩置県のあと数年のあいだにこわされた城の事であります。
ーーーーーーーーーーーー(以上抜粋、要約)-----------

このように明治維新と共に直ぐに実施した廃藩置県の最大の意図は藩という自治を廃止し、中央という国が全地域をコントロールする中央集権国家を目指します。廃藩置県とは単なる社会システムの切り替えだけでなく、中央集権体制を無血で推し進める為に武士階級やその下の惣村共同体を解体する最適の解だったのです。さらに明治政府の本心は近代化の反分子になりかねない江戸時代の惣村や一揆という地方(共同体)の力を弱らせる事が喫緊の課題だったのです。

それにより、藩=地域共同体という核が無くなり、都市と地方、都会と田舎という構造が出来上がっていきます。
予算の流れも大幅に変わります。それまでは基本的に自立していた地方の予算を中央が握り、配給という形をとります。同時に税も地方税と国税という2重の税構造に国民は苦しめられます。江戸時代の年貢と現在の税がどう違うのかは比べる必要がありますが、両税や消費税も合わせると収入の4割近く税に取られる現在の課税状況は江戸より良いとは決していえないと思われます。さらに江戸時代では税の取りすぎに対して一揆という申し立てがあり、お上と大衆はバランスが取れていました

国力=経済力となった明治以降は国も大衆も一体になって経済力をつける方向に舵を切ります。豊かさが実現する70年代までそのエネルギーは続き、それは私権獲得、その為の都市集中、地方軽視の風潮を作り上げました。

日本において、明治からの90年間は最も地域意識が失われ、最も共同体が解体した一時代です。裏返せば、明治政府が意図した通り(中央がコントロール)にその後の日本は動いていくのです。人々が公をお上という独占体に任せ地域の事、社会の事を考えなくなったのもこの時期に一致します。言い換えれば日本人が自らの生きる場を考えなくなったのは日本史上でもこの明治以降と奈良、平安の2回だけだったのではないでしょうか。廃藩置県とは武士階級の仕事を奪っただけでなく、人々の社会への視座を奪い取っていったのです。

投稿者 tanog : 2015年02月19日 List  

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コメント

植民地化という世界の情勢から、中央集権の国家づくりをしなければならなかったとはいえ、何と地域自治を失った日本は、国の主権を守るため軍国主義へと急速に傾いて行ったことは理解できるにしても、現在、地方の再生を目指しているとは、世界秩序に左右される日本の立場を考えてしまいます。

投稿者 ,根保孝栄・石塚邦男 : 2015年2月28日 17:14

コメントありがとうございます。
現在、地方の再生を目指しているとは、世界秩序に左右される日本の立場を考えてしまいます。⇒地方の再生とはお上に左右されない民意の再生と思います。
世界秩序の前提に日本の秩序があるように、日本の秩序の前にそれぞれが生きているその地域の秩序があるように思います。世界秩序に左右される現代からこそ、地に足が付いた生き方が求められるように思います。

投稿者 tanog : 2015年3月5日 19:52

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