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2009年05月04日

民族収束ってなんだろう~4月29日なんでや劇場レポート

こんばんは。管理人のtanoです。
GW皆さんはいかがお過ごしでしょうか?
100年に一度の未曾有の経済危機と言われる社会情勢の中、昨日も読売新聞で世論調査の発表がありました。

それによると生活が苦しくなったと答えた人が06年5月の25%から54%に増え、第2次石油危機の1980年2月以来の数字だと出ていました。
しかしこの調査で驚くのは変わらないと答えた人もまた43%ほどあり、昨年来、経済危機が叫ばれているものの実感としてはあまり変わらないというのも世間のもう一方の実体かと思います。

今、人々の意識はどこに向かっているのか?連休の中日の今日はそんな事を考えながら記事をまとめてみたいと思います。
昨日、なんでや劇場で「世界経済どうなる?」を扱いました。
かなり衝撃的な内容で、他のブログやるいネットの方で詳しく扱っていただいていますので、その時の詳細内容は以下を参照という事にさせていただきますが、
なんでや劇場レポート1 ~世界経済はどうなる?
なんでや劇場レポート2 ~金貸し支配の現象とは?
その議論の中でこの間の経済危機を受けて人々の大きな意識の流れ、変化を扱っていました。その内容について今日は紹介してみたいと思います。
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まず、サブプライム問題に発する昨年末のアメリカ発の世界金融経済連鎖破綻が大きな引き金になります。
それまでも2000年以降、日本では大きな流れとして民族収束という意識潮流がありました。米欧型の自由主義経済に破綻の兆候が現れ始めたからです。この時はどちらかというとそれまでのアメリカ追従、舶来思考一辺倒から日本の見直し、日本の良さの再認識が始まっているという段階でした。日本文化的なことや日本食の見直しといった身の回りの事象が多かったように思います。
しかし、それがここ数年日本人の意識や、さらにはそれを作ってきた農耕体質や縄文体質といったところまで、話題になるようになりました。3年前に滋賀県知事が当選した時に有名になった「もったいない」という言葉の流行は、まさにこの間の民族収束を象徴している出来事だと思います。
この10年、人々の意識はさらに進行し、昨年のアメリカ発の経済危機が決定付けました。現在、アメリカ型金融経済を肯定する人はほとんどいないでしょう。また、同時にアメリカ的な個人主義、実力主義に対しても疑問が起き始めています。
なんでや劇場で扱った内容を紹介します。
現在の経済状況はこれまでの金貸し支配が綻び始めている。
⇒世界同時経済破局の危機を受けて、人々の意識は以下のように変化している。
危機の察知⇒集団収束⇒国家収束(民族収束)
この危機⇒集団へという流れは人に限らず、生物共通の法則です。
また、集団から国家へという流れも、安全保障を最終的に実行するのは国家単位であり、集団収束した国民の意識は最終的にそこに行き着くという訳です。
この国家収束は自国の国益収束という段階から、隣国とも何とか結束して危機を乗り越えようとする連携意識へと様々な形で現れます。
そして、この傾向は日本だけでなく、ヨーロッパ各国などでも既に現れているのです。昨年来繰り返されるG20の会合やヨーロッパ諸国の連携による保護貿易などです。
ヨーロッパなどは次々と国家の枠組みを超えて連携し、また国内の制度改革(金融規制)にも着手し始めています。
世界経済どうなる?の幹の答えは、「金貸し支配による私権原理による国家体制」⇒「共認原理による国家」への転換という大きな歴史観です。
金貸し支配(具体的にはロックフェラーやロスチャイルド)が破綻し一旦バラバラになった世界各国がその勢力争いを経由し新たな秩序が立ち上がるということを意味しています。しかし、その争いを止揚するのはこれまでの武力ではなく、国家収束力や国家を枠を超えた連携力であることが期待されます。
国家収束力とはどういう事か?
一言で言えば、国民の社会意識が上昇した状態を意味しています。
たとえば、こんな意識です。
この状況下で日本としてどうすればいいか?世界にあって日本の求められている役割とは?その中でそれぞれの集団(地域、企業、家庭)は何をすべきか?子供達はどのように育てていくべきなのか?
そういった社会的な事を自分のことと同等に考えていける人材を育てていく事が求められています。本来の社会意識を持ったエリートとそれを支える国民の共認が必要になってきます。
ヨーロッパが危機を前にいち早く転換できているのは元々、社会的責務をエリート教育の根幹にしてきた歴史があります。列強国の間で揉まれてきた歴史を持つ彼らは個人主義でありながら、その部分(社会的責務)は強く形成されています。危機の時に国益や国防を第一に考え、政策や制度を練り直す能力は残念ながら日本の自民党や民主党、官僚などよりかなり上だと思われます。
なぜ日本のエリートにそれができないのか?そこについても劇場で触れられましたが、下記のるいネット投稿にありますのでそちらを参照してください。
特権階級の自家中毒
最後になりましたが、「この歴史ブログに期待されていることは何か?」を少し考えてみます。
劇場では以下の事が話されました。

「本来の社会意識が必要という地平に立てば、無限の勉強の必要性が出てくる。縄文体質(社会的言葉を介さず、日常会話で関係を形成してきた歴史を持つ)の日本人にもここに来て頭を使う(=観念を使う)地平が発生してきた事を意味する。」

私達が日本人の歴史を学びなおそうとする原動力はここにあります。
日本人のこれからの可能性を探る上でも、これまでの日本の歴史を正確に捉えておく必要があります。民族収束の期待に応える中身です。
そして、これから起きる大きな社会変革を迎えてそれに対応する事ができるのか?その可能性は稲作農耕民や縄文体質という日本人が持つ民族性に期待できるのか?
本来の社会意識をどのように日本人は形成していけばよいのか?
その課題がいよいよ間近に迫っています。
なんでや劇場に出て、改めて歴史追求への課題意識が高まったような気がします。

投稿者 tano : 2009年05月04日 List  

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コメント

naotoさん縄文の記事ありがとうございます。
このブログは縄文の事をもっと知りたいという読者がたくさん集っています。その方の期待に応えるためにも縄文追求を怠らないようにしていきたいと思います。
・・・でも
実は縄文追求は何も縄文時代の中にあるわけではないと私は思います。
その気になって注視していけば、私たちの生活の中に、弥生時代以降の日本人の歴史の中に、残ってきた日本人の慣習や規範の中に必ず残っています。そちらを丹念に丁寧に見分けていく事もこのブログの役割だと思っています。
縄文追求、いろんな視点でやっていきましょう!

投稿者 tanoyan : 2009年6月14日 11:36

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