2009年5月8日
2009年05月08日
5月の優良ブログ、HP紹介のページ。
こんばんわ。管理人のtanoです。
雨が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか?
新緑 の季節を向かえて、細く降る五月雨 もまたいいものです。
このGW、渋滞の報道ばかりがなされて車を使わない私も辟易とするものがありましたが、
この時とばかりに普段行けない地元の遺跡を巡ってレポートを寄せていただいた方がいらっしゃいます。
一つはるいネット から、もう一つはこの縄文ブログへのコメント から紹介してみます。
お二人とも女性の方です。フットワーク軽いですね!
■三内丸山レポート(青森) 三内丸山遺跡、見てきました!
GWを利用して三内丸山遺跡を実際に見てきました!
復元物を実際に見ると縄文人の知恵や技術の凄さに圧倒されます。
●大型掘立柱建物跡
よく三内丸山遺跡で特徴的なのはシンボルや祭殿のために建てられたという仮説もあるようですが、、、シンボルを誇示したいような権力、階級が当時あったのか?というのが謎になると思います。
三内丸山の集落のすぐ手前が海だったという説を考えると、漁のための灯台、ものみやぐら、津波のときの避難場所と考えられる気がします。他集団が来たとき、大規模集団を統率するための見張り台?
ちなみに直径1Mもあり高さ20Mにも達するこの建物。建設するには相当の労力がかかるはず。相当の必要に迫られないとなかなか建てられないものだと思います。当時それほどまでに必要な用途ってなんだったんでしょうか?やっぱり自集団を守ると考えると同類闘争への備えでしょうか?
●盛土
東西南北にそれぞれ1か所ずつ土器や石器、残土を捨てたとされる小山がありました。同じ箇所に1000年もの間、壊れた土器、石器、残土を捨てたということです。
ここでちょっと疑問が・・・?彼らに「捨てる」という概念はあったのでしょうか?捨てるというよりも日常生活に大切な土器、石器を土に返し後世でまた再び使えるようにという意味で葬ったあるいは埋葬したと考えた方が自然な気がしました。そうなると残土を捨てたというよりも土を盛って埋めた可能性も考えられます。
三内丸山遺跡はまだ発掘調査が続いており、分かっていないことの方が多かったです。学者の定説もいくつか出ているようですが、私権時代や現代の感覚と絡んでしまい、正確な仮説が立たないように思えてなりませんでした。もっと徹底的に発掘された事実、当時の外圧を捉えて知りたい!と思いました。
今後も発掘調査の続きやるいネットでの追求に期待です!
■クロマンタレポート(秋田)
投稿者 tano : 2009年05月08日 Tweet