2009年5月13日

2009年05月13日

毛人の国の考察ー3

私は、自身のブログでも 「辛亥銘鉄剣」 について アレコレと書いているのですが、→ http://blogs.yahoo.co.jp/mizunoene17/folder/1010159.html こちらの ‘縄文と古代文明を探求しよう’ に掲載されている幾つかの記事を閲覧させて頂くうちに、又、新たな観点を得ることが出来たように思うものが 一つ あります。
それは、『毛野国』 (~ 古代東国の全域) と呼ぶべき地の大きさ です。
毛野国 (けぬのくに) は、大和朝廷の覇権が東国にも及ぶ様になった時代 (古墳時代) に於いて、現在の栃木と群馬の両県にまたがった地域にあったもの と、認識されています。
唐突な言い方ですが、そこに 埼玉県などが入る様な印象がありません。
現在の埼玉県を眺めてみると、周囲を 山梨、長野、群馬、栃木、茨城、千葉、そして東京にぐるりと囲まれた状態になっています。
おかしな言い方ですが、関東平野の 群馬や栃木や茨城、山梨、長野、そして東京 ・ ・ ・、その何処でも無いところが、埼玉県、です。
これは見様によっては、一つだったところの真ん中に穴が開いた為に、そこから放射状に亀裂の線が入った、という様に 見えないでしょうか。
前回の記事で 「武蔵国造りの乱」 の後に、使主 (おみ) は、屯倉として、その治めている土地の数箇所を大和朝廷に献上した、という記録があることを書きました。
その記述に於いて ‘武蔵国’ とされてあるので、使主や小杵 (おぎ) は、現在の埼玉県を主にその支配地にしていた様に感じられます。
ちょっと考えれば、その時に屯倉として献上した所は、現在の東京の武蔵野の地や神奈川の辺りの地だと云われているのですから、乱が起こった当時の ‘武蔵国’ の範囲には、東京も神奈川も入っていた、と推し量ることが出来るのです。
つまり、大和朝廷の領土となる以前に、今の東京から神奈川県( ~ 関東平野の西端迄 でしょうか) は、‘武蔵国’ を治める者の領土のうちであった、と考えられる訳です。
「武蔵国造りの乱」 で大和朝廷の武力が成敗した小杵には、上毛野小熊が味方をしていた と、日本書紀にありますから、‘武蔵国’ の中の小杵が支配していたところと上毛野とは けして無縁の関係ではなかった筈です。
又、使主と小杵とは同族の関係だ と、その記述にはあります。
ー ー ー 大和朝廷が屯倉を置く前、つまり、東国の地に覇権を及ぼす前には、‘武蔵国’ と上毛野の地を領土とする支配者同士は ひょっとして、共通のルーツを持っていたかもしれません。
(上毛野と下毛野に分かれたのも、実は、律令国家となってからだと考えられていますから、古墳時代のことを考えているここでは、以後、上毛野とは云わずに、毛野国 と云います)。
その 辛亥の年とは、471年であると云われている、115の文字が刻まれてある 『辛亥銘鉄剣』 は、埼玉県行田市の さきたま古墳群の中の 稲荷山古墳から出土したものです。
有名なその銘文の最後には、‘奉事の根源をここに記す也’ とあります。乎獲居 (ヲワケ) という名を始めとして、八つの名が記されています。
それは、代々の八人 は、根源を一つとする、という解釈にもなります。
その八つの名前の 大祖 (おおおや) として挙げられている オオヒコ 以外の七つの名前は、後々の関東 (主に埼玉県の) の土地の名前になっているのではないか という説を読んだことがあるのですが、→http://homepage3.nifty.com/kofun/index.html
私も、武蔵七党と呼ばれた武蔵武士達のその根幹の地に それらの七つの名前が残っているのではないか と、考えたことがあり、そこで述べられている説には、共感を覚えました。
『辛亥銘鉄剣』 にある名前には、今も残る土地の名前が含まれているのではないか ・ ・ ・。
と そこで今、‘乎獲居臣’ と刻まれてある名前について考えてみます。
‘乎ーヲ’、‘獲ーワ’、‘居ーケ’、‘臣ーオミ’、
夫々の文字の持つ 夫々の音に、夫々の 意味がある という見方は、古代の漢字表記 (万葉仮名) されたものを解釈する時の鍵でもあります。
この四つの文字が揃って一つの名を作っているのではなくて、ある四つのものが並べられてある、のかもしれない と、考えてみます。
今、極めて明らかに分かるものが ここにはあって、それは、三つ目の文字の ‘居ーケ’ と、‘毛’ が同じ音 である、ということです。
私は、この ‘ケー毛’ の文字が付く川が、関東に幾つか存在することに気付いて、ささやかな感動が沸きました。
この ‘居ーケ’ は、毛長川や毛野川 (鬼怒川) の ‘毛’ のことではないでしょうか。
さらに、‘乎ーヲ’、‘獲ーワ’、‘居ーケ’、‘臣ーオミ’、とは、四つの川を意味しているのではないでしょうか。
川の流域に人の文明 (縄文文化) の営みが生まれる、という考えは、常識中の常識です。
現在の埼玉県行田市に大規模な古墳群を造った人々は、関東平野の四つの川にその文明の温床を得た人々だったのかもしれません。
現在、県を別にしている群馬、栃木の毛野国や、武蔵と呼ばれた埼玉や東京、また、神奈川の辺りまでが、私は 縄文時代に始まる ‘毛人の国’ の範囲だったのではないか と、考え始めています。
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有難う御座いました。

投稿者 ruiblog : 2009年05月13日  

2009年05月13日

キリスト教はどのようにしてローマ帝国の国教となったのか?

【チーム・宗教】maruさんの投稿「初期キリスト教における教会の存在」では、ユダヤ戦争によるエルサレム陥落をきっかけに、キリスト教会におけるユダヤ教の伝統的な厳しい律法を重視するヘブライオイ(原始キリスト教団)が地位を失い、現在のキリスト教のように「神の愛」を信じるだけで救われると説いたヘレニスタイ(ヘレニズム教会)が勢力を広げていったことが分かりました
今回は、さらにその後、キリスト教がローマ帝国でどのようにして国教化していったのか?を追っていきたいと思います!
kirisutohukyu.gif
[ローマ帝国時代キリスト教の布教状態(4世紀初めキリスト教公認のころ)]
293年、ディオクレティアヌス帝は、広大なローマ帝国を効率よく統治するため、四分統治(帝国を東と西に分け、それぞれに正帝「アウグストゥス」、副帝「カエサル」を置く政策)をとり、広大な領土を効率的に収めようとしました。また、専制君主制を導入し、立法・司法・軍事の最高権力を一手に握りました。
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(さらに…)

投稿者 staff : 2009年05月13日  



 
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