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2009年05月13日

キリスト教はどのようにしてローマ帝国の国教となったのか?

【チーム・宗教】maruさんの投稿「初期キリスト教における教会の存在」では、ユダヤ戦争によるエルサレム陥落をきっかけに、キリスト教会におけるユダヤ教の伝統的な厳しい律法を重視するヘブライオイ(原始キリスト教団)が地位を失い、現在のキリスト教のように「神の愛」を信じるだけで救われると説いたヘレニスタイ(ヘレニズム教会)が勢力を広げていったことが分かりました
今回は、さらにその後、キリスト教がローマ帝国でどのようにして国教化していったのか?を追っていきたいと思います!
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[ローマ帝国時代キリスト教の布教状態(4世紀初めキリスト教公認のころ)]
293年、ディオクレティアヌス帝は、広大なローマ帝国を効率よく統治するため、四分統治(帝国を東と西に分け、それぞれに正帝「アウグストゥス」、副帝「カエサル」を置く政策)をとり、広大な領土を効率的に収めようとしました。また、専制君主制を導入し、立法・司法・軍事の最高権力を一手に握りました。
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この頃、帝国はキリスト教会に対する態度の選択を迫られていました。64年頃からネロ、デキウス帝(250年勅令を布告し、全属州に対して全面的にキリスト教を禁止、数え切れない殉職者が出た。)、ウァリアヌス帝(257年の教会禁止令や翌年の全教職処刑令など過酷な禁令が発せられ、教会組織の根絶が企てられた。)と続いたローマ政府による厳しい迫害を生き延び、「帝国内の帝国」とまで呼ばれた独自の組織力を持つようになったキリスト教会を無視できなくなったのです。
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[ディオクレティアヌス帝]
そこで、武力によって教会を屈服させるか、あるいは教会と盟約を結び、それを利用するか、この二つの対策のうち前者の迫害対策をとったのが東の正帝ディオクレティアヌスで、後者の融和政策をとったのがコンスタンティウス・クロルスとその子のコンスタンティヌス帝です。
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[コンスタンティヌス1世]
皆さんはどちらの政策がうまくいったと思いますか?
武力による迫害が200年程も続けられてきたにも関わらず、しぶとく生き延びている
ということは、後者のコンスタンティヌスの融和政策の方が可能性が大きいですよね?

父コンスタンティウスは西の副帝としてライン川前線防衛の任にあたり、今日のイギリスとフランス地域を統治していました。彼はディオクレティアヌスのキリスト教迫害に対して、会堂破壊などのジェスチャーを示したものの、積極的な迫害は行わず、キリスト教徒に好意をもたれていたと言われます。
彼の死後、息子のコンスタンティヌスが、その政策を継ぎ、いよいよ迫害政策と融和政策の決定的な対決が起こりました。
312年10月、イタリア・北アフリカを制圧していたマクセンティウスをミルウィウス橋の戦いで破りローマへ入城帝国の西半分の覇権をかけたミルウィウス橋の決戦(通常の籠城戦ではなく橋の上なのは、コンスタンティヌスがこの戦いの前に光り輝く十字架(キリストを意味する Ρ と Χ の組み文字であるラバルムという説もある)と「汝これにて勝て」という文字が空に現れるのを見たため、十字架を旗印として戦い、戦法を変えたため勝利し、これがきっかけでキリスト教を信仰するようになったと言われている。)
で、コンスタンティヌスは大勝利をおさめ、翌313年東の正帝リキニウスとともに「ミラノ勅令」を発布、実質的にキリスト教を公認、324年にはリキニウスを破り、ローマ帝国の単独支配を達成しました。

コンスタンティヌスがキリスト教を迫害せず、融和政策をとったのは、自身がブリタンニア出身のキリスト教徒ヘレナを母として生まれたので、もともとキリスト教に好意的であったからとも言われています。(一時期ミトラ教に傾倒したが、晩年にはキリスト教の洗礼を受け、正教会ではキリスト教徒であった母とともに「亜使徒」の称号を付与されて尊崇された。)
 とはいえ、キリスト教会に対しては武力は用いず、融和して、覇権を奪うには武力を使っているというのは…しかたのないことなのでしょうか?やはり、覇権を奪うための武力を強めるためにキリスト教会を利用したという形になっていることは否定できません。さらに、「ミラノ勅令」を連名で発布した正帝リキニウスを10年後に倒してローマ帝国を単独支配するなんて…やりすぎな感じがします。ウィキペディアでは、こんな記事も書かれています「コンスタンティヌス1世の功罪」。

(コンスタンティヌスは、日本正教会では正式には「亜使徒聖大帝コンスタンティン」と呼称されているそうです。そういえば、キアヌリーブス主演の「コンスタンティン」っていう映画がありましたね。私は観ていませんが、ジャケットでキアヌリーブスが険しい顔つきで十字架を持っています。宗教の話が絡んでいる映画のようですね。面白そうです。)
<キリスト教の国教化>

313年のミラノ勅令によって、ローマ帝国の公認宗教となったキリスト教は帝国の宗教政策の一環に組み込まれることになりました。コンスタンティヌス帝の宗教政策は「一つの帝国、一つの教会」と表現されますが、これは一人の独裁的な皇帝の意志によって、帝国を再編成しそのために特にキリスト教会を利用することを意味しました。
この政策を進めるため、キリスト教徒の集中している東方に新都コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)が建設され、330年に異教の影響力が強いローマから帝都が移されました。
さらに帝国にふさわしい組織と信仰を持つ、統一された「一つの教会」を形成するため、対外的には教会の権威を高め、内部的には教会の統一が図られ、そのため分派や異端は厳しく処罰されました。
また国内は大きな教区に分けられ、それぞれの中心地にある教会の主教が総主教となりました。まず325年、ローマ、アンティオキア、アレクサンドリアがニカイア公会議で承認され、さらに381年、コンスタンティノポリスがコンスタンティノポリス公会議で、451年エルサレムがカルケドン公会議で承認されて五つの総主教区が誕生しました。
こうして教会の組織が帝国の組織とますます似通ったものになり、両者の一体化が進んでいきました。
その後ローマの伝統宗教を復活しようと試みたユリアヌスのような皇帝も現われましたが歴代の皇帝は大体キリスト教を支持しました。
そして392年テオドシウス帝の時代に異教が全面的に禁止され、キリスト教はローマの国教となりました。

キリスト教の教典が統治のために役立つから国教となったというより、しつこいキリスト教会を鎮めることは不可能だし大勢だから、いっそのこと仲間になって統治に利用したということでしょうか。実際、ミルウィウス橋の決戦でコンスタンティヌスが十字架を旗印として戦ったから、キリスト教を信仰するようになったなんて…教典など関係なく、ただのおまじないとしかいえません。キリスト教の教典の内容の良し悪しではなく、ユダヤ教や多神教よりも、楽に信者になる=仲間を作ることができるキリスト教は、大勢になるため国の統治に利用され、それによってさらにキリスト教会の地位が増し、信者になりたがる人も増える。→より大勢となったため、テオドシウス帝がさらに統治に利用するため国教と指定した、ということでしょうか。
参考HP

http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/kirisitokyou15.html

ウィキペディア

投稿者 staff : 2009年05月13日 List  

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コメント

> 朝鮮半島に前方後円墳が作られた理由には4つの説が考えられる。
瑣末な珍説を4つ並べながら〝倭国の直接的な支配地であった〟という一番有力な説が選択肢の中にないのは一体どうしたことでしょうか?好太王碑にある「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民」や宋書の〝倭王武の上表文〟は全く無視。これでは学術番組とは申せますまい。

投稿者 加計呂麻人 : 2009年6月18日 13:24

tanoさん、こんにちわ~。
タツも、この番組、チェックしました。
韓国に寄りすぎという意見は当然ですが、現地取材は相手側の協力なくして不可能なので、「任那日本府」を堂々と扱ったNHKを評価して、視聴者がつついていったら、いいんじゃないかと思いました。
tanoさんのまとめは分かりやすくて、ボケ~ッと見ていた自分とは、違うなぁ。
ところで、七支刀がユダヤの儀式と関係あるとか、そっちの方も気になりますね。

投稿者 タツ : 2009年6月18日 14:36

加計呂麻人さんコメントありがとうございます。
説として取り上げるのはありえないこともないですが、金官伽耶が倭国の直接的支配地という可能性は私はないと思います。ただ、NHKのスタンスとして朝鮮に対する配慮をかなりしている事は伺え、日本と韓国の2人のゲストの発言からも見て取れます。(言いたい事をのびのび言っている韓国の学者と言葉を選んで慎重に話す日本の学者)
当然、この番組でのNHKの韓国迎合と取られる姿勢はネットなどでも攻撃の的としてさまざま取り上げれているようです。
ただ、私が思うのは、そのような過去のどちらが支配した、支配していないなどの決着のつかない議論に終始するより、日韓の古代から現代にいたる歴史を淡々と追いかけていく事が重要だと思います。
最初は同じだった(あるいははるかに日本より先行していた)韓国に追いつき追い越した日本人の特性はどこにあるのか?それを番組を通じてどこかで発見できればと思っています。
一言で言えば国民性なのですが、歴史にもあると思います。
少なくとも4回は国を失った朝鮮半島と、一度も国を失わなかった日本、それらが与えてきた民族への影響は少なくないように思います。

投稿者 tano : 2009年6月18日 22:15

タツさんコメントありがとうございます。
まとめ、お褒めいただきうれしいです。
実は縄文ブログのグループでこの記事を書こうということになって、慌ててビデオを2回ほど見て何とかまとめた代物なんです・・・。
もちろん最初はタツさんと一緒でボケーと見ていました(笑)
韓国と日本、この対比をする事自体がかなり勇気のいることですよね。でもお互いの国にとって必要な事だと思います。

投稿者 tano : 2009年6月18日 22:21

「日本と朝鮮半島2000年」任那日本府の謎。NHK放映を見ました。大変参考になりました。レポートも良く出来て勉強になります。古代における南部朝鮮沿海地域と倭、特に北九州を同一文化圏だと考えています。相当以前から「日本書紀」では、特に「百済」では倭人と思はれる名前が、頻繁に出るので訝しく思っていましたが、半島から海を渡って倭に来た人が居れは、逆に半島に棲み付いた倭人がいても可笑しくないと考えています。ナショナリズムを歴史に持ち込む人がいますが、理解出来ません。

投稿者 poor papa : 2009年6月19日 11:01

この番組は私も1回目、2回目共に見ましたが、酷い出鱈目ばかりで滅茶苦茶でした。
1回目と2回目では内容が重複する部分が多かったのでブログでは1回目しか取り上げていません。
そもそも人類史上、朝鮮半島が日本列島よりも先進地域だったことは一度たりともありません。
水田稲作技術は日本列島から朝鮮半島に伝播したことが確定しているのに、「朝鮮半島から日本列島に伝播した」と嘘を吐き、朝鮮には16世紀になっても衣服を紅く染める技術がなかったのに、「朝鮮半島には3~4世紀に染色技術があった」と嘘を吐いていました。
日本の巨大古墳から発掘される「巴型銅器」と同じ「巴型銅器」が任那(伽耶)のテソンドン古墳から発見されたということは、単純に任那(伽耶)が日本の属国だったことを意味します。
倭国が任那(伽耶)や百済や新羅などを属国にして支配していたことは、日本の『日本書紀』や高句麗の『広開土王碑文』の他、支那正史の『宋書』や朝鮮の史料である『三国史記』でも述べられているので100%確実です。

投稿者 deliciousicecoffee : 2009年6月19日 21:05

2.日本と朝鮮半島2000年←NHK『プロジェクトJAPAN ETV特集シリーズ第1回古代 人々は海峡を越えた』も嘘ばかり・『広開土王碑文』は嘘?・伽耶から日本に鉄製品、日本から伽耶に人間(労働力)

上:広開土王碑文の墨水廓填本(引用される部分)
下:列傳第四十六 隋書 巻八十一 東夷伝 倭国
<font size=4,color=red…

投稿者 正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現 : 2009年6月19日 21:09

poor papaさんコメントありがとうございます。
この番組を見た方からたくさんコメントがついて嬉しいです。
>古代における南部朝鮮沿海地域と倭、特に北九州を同一文化圏だと考えています。
沿岸地域に限れば、なるほど、そういう見方もありえますね。
同一文化圏とまではいかなくても相当に交流があったことは確かですね。ただ、玄界灘の航海は想像以上に厳しく、命からがらだったのではないでしょうか?
>ナショナリズムを歴史に持ち込む人がいますが、理解出来ません。
もっともです。

投稿者 tano : 2009年6月19日 23:40

deliciousicecoffee さんコメントありがとうございます。
あまり反論するつもりはありませんが、100%という数字はいかがなものでしょうか?
>酷い出鱈目ばかりで滅茶苦茶でした。
⇒私自身は勉強になる部分も多かったですよ。。。
もちろん白黒はっきりしない部分はわかりにくかったですが・・・。
お二人から来ているコメントを紹介しておきます。
deliciousicecoffee さんごめんなさい、
私はそちらに賛同しています。
poor papaさん
>ナショナリズムを歴史に持ち込む人がいますが、理解出来ません。
タツさん
>韓国に寄りすぎという意見は当然ですが、現地取材は相手側の協力なくして不可能なので、「任那日本府」を堂々と扱ったNHKを評価して、視聴者がつついていったら、いいんじゃないかと思いました。

投稿者 tano : 2009年6月19日 23:49

tanoさんと皆さん、第3回の「仏教伝来」ご覧になりましたか?
上のコメントでNHKを持ち上げすぎて、ちょっと後悔です。
任那問題はむこうが舞台だから韓国に配慮するのを理解できますが、「仏教伝来」は、わが国の主体的判断をきちんと説明してほしかったです。
鈴木靖民先生のお顔がこわばっていたのは、ディレクターが嫌な人だったのかなぁとか…。

投稿者 タツ : 2009年6月30日 20:14

こんばんわ。もちろん見ました!
この時代はあまり知識がないもので、私にはかなり勉強になったと感心していましたが・・・。
舎利器の話や百済寺の話など。
タツさんの言うように主体的判断が少なかったとはあまり思いませんでした。(NHKのおもう壺!)
ただTVの場合いずれもそうですが、表面的な事実と、一般的な歴史見解を紹介するに留まり、それ以上の追求はなされないのも確かです。だから見終わった後に何も残らない。
面白かったけどなんだっけ?という事になるのです。
今回もいずれ要約版を縄文ブログに掲載しようと思います。
鈴木先生の顔がこわばっていたのはNHKだからでしょう?
日朝の対立に関わる事は言うな!と言論規制がかかっている空気があったのだと思います。逆に韓国の学者はのびのびしていましたね。
それではタツさん、またコメントお願いします。

投稿者 tano : 2009年7月2日 20:39

tanoさんもお気づきのとおり、鈴木先生のムッとしたお顔に対して、韓国の先生がえらいご機嫌さんで、あまりにも対象的でした。(そこが、この番組でいちばん面白いところでした。)
舎利器の出てくる場面。あれを見せられると、なにも云えなくなってしまう。
要約版、期待しております。

投稿者 タツ : 2009年7月3日 09:49

歴史追跡:栄山江アパート型複合古墳のミステリー

新羅、高句麗、百済の時代の遺跡発掘の話。 面白かったのでメモした。 今まで知られていないのがすごい。 栄山江(全羅南道)中流の羅州、永洞里で2005年、…

投稿者 歴史ブログ : 2009年9月1日 13:39

私は、日本側が無駄に緊張してるとは感じましたけど、偏向までは感じませんでしたね。
前方後円墳についての学説も偏向していないし、日本府についても現在の学説をしっかり反映していましたよ

投稿者 kyo : 2009年12月24日 20:57

ところで舎利器の中に勾玉が入っているのは何故でしょうか?
飛鳥寺でも王興寺にも入っています。
元来縄文時代のものでしょう。
ところでアイヌ語でタマは魂のことです。
勾玉のタマも魂のことだと思っています。

投稿者 やすべ : 2010年1月21日 16:32

>舎利器の中に勾玉…
やすべさんの鋭いご指摘に考えさせられます。
その現象だけを解釈するなら、仏教という新思想の導入によって、もっとも大切に収納されたのは、縄文から続く魂の交流であったと云えるのではないでしょうか。
近年の例でも、ワールドカップの日韓共催なぞは、国際的に流行しているスポーツを介して、縄文的なエネルギーの発散に感動があったと思えます。
きれいごとを云いますと、オタマジャクシのときから友達だった二匹のカエルが、広い世界に興味を持って、いっしょに勉強して成長してきたのが、日本と朝鮮半島なのでしょう。もちろん競い合い、喧嘩もしたけれど。
未来志向の歴史観を打ち出すとき、「2000年」のモノサシでは短すぎる。
だから、「縄文と古代文明を探求しよう」の皆さま、ますます頑張ってください。(ヨイショっ、パタパタ)

投稿者 タツ : 2010年1月23日 14:40

勾玉の材料は日本の糸魚川産のヒスイです。
朝鮮半島の新羅の武烈王の王冠には多数の勾玉が使われています。
縄文人が宝にしていた信仰が影響しているのでしょうか。
単純に朝鮮半島から日本へ文化が伝わっただけではないようにも思われます。

投稿者 やすべ : 2010年1月29日 14:13

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