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キリスト教はどのようにしてローマ帝国の国教となったのか?

【チーム・宗教】maruさんの投稿「初期キリスト教における教会の存在」では、ユダヤ戦争によるエルサレム陥落をきっかけに、キリスト教会におけるユダヤ教の伝統的な厳しい律法を重視するヘブライオイ(原始キリスト教団)が地位を失い、現在のキリスト教のように「神の愛」を信じるだけで救われると説いたヘレニスタイ(ヘレニズム教会)が勢力を広げていったことが分かりました
今回は、さらにその後、キリスト教がローマ帝国でどのようにして国教化していったのか?を追っていきたいと思います!
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[ローマ帝国時代キリスト教の布教状態(4世紀初めキリスト教公認のころ)]
293年、ディオクレティアヌス帝は、広大なローマ帝国を効率よく統治するため、四分統治(帝国を東と西に分け、それぞれに正帝「アウグストゥス」、副帝「カエサル」を置く政策)をとり、広大な領土を効率的に収めようとしました。また、専制君主制を導入し、立法・司法・軍事の最高権力を一手に握りました。
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この頃、帝国はキリスト教会に対する態度の選択を迫られていました。64年頃からネロ、デキウス帝(250年勅令を布告し、全属州に対して全面的にキリスト教を禁止、数え切れない殉職者が出た。)、ウァリアヌス帝(257年の教会禁止令や翌年の全教職処刑令など過酷な禁令が発せられ、教会組織の根絶が企てられた。)と続いたローマ政府による厳しい迫害を生き延び、「帝国内の帝国」とまで呼ばれた独自の組織力を持つようになったキリスト教会を無視できなくなったのです。
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[ディオクレティアヌス帝 [3]]
そこで、武力によって教会を屈服させるか、あるいは教会と盟約を結び、それを利用するか、この二つの対策のうち前者の迫害対策をとったのが東の正帝ディオクレティアヌスで、後者の融和政策をとったのがコンスタンティウス・クロルスとその子のコンスタンティヌス帝です。
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[コンスタンティヌス1世 [4]]
皆さんはどちらの政策がうまくいったと思いますか?
武力による迫害が200年程も続けられてきたにも関わらず、しぶとく生き延びている
ということは、後者のコンスタンティヌスの融和政策の方が可能性が大きいですよね?

父コンスタンティウスは西の副帝としてライン川前線防衛の任にあたり、今日のイギリスとフランス地域を統治していました。彼はディオクレティアヌスのキリスト教迫害に対して、会堂破壊などのジェスチャーを示したものの、積極的な迫害は行わず、キリスト教徒に好意をもたれていたと言われます。
彼の死後、息子のコンスタンティヌスが、その政策を継ぎ、いよいよ迫害政策と融和政策の決定的な対決が起こりました。
312年10月、イタリア・北アフリカを制圧していたマクセンティウスをミルウィウス橋の戦いで破りローマへ入城帝国の西半分の覇権をかけたミルウィウス橋の決戦(通常の籠城戦ではなく橋の上なのは、コンスタンティヌスがこの戦いの前に光り輝く十字架(キリストを意味する Ρ と Χ の組み文字であるラバルムという説もある)と「汝これにて勝て」という文字が空に現れるのを見たため、十字架を旗印として戦い、戦法を変えたため勝利し、これがきっかけでキリスト教を信仰するようになったと言われている。)
で、コンスタンティヌスは大勝利をおさめ、翌313年東の正帝リキニウスとともに「ミラノ勅令」を発布、実質的にキリスト教を公認、324年にはリキニウスを破り、ローマ帝国の単独支配を達成しました。

コンスタンティヌスがキリスト教を迫害せず、融和政策をとったのは、自身がブリタンニア出身のキリスト教徒ヘレナを母として生まれたので、もともとキリスト教に好意的であったからとも言われています。(一時期ミトラ教に傾倒したが、晩年にはキリスト教の洗礼を受け、正教会ではキリスト教徒であった母とともに「亜使徒」の称号を付与されて尊崇された。)
 とはいえ、キリスト教会に対しては武力は用いず、融和して、覇権を奪うには武力を使っているというのは…しかたのないことなのでしょうか?やはり、覇権を奪うための武力を強めるためにキリスト教会を利用したという形になっていることは否定できません。さらに、「ミラノ勅令」を連名で発布した正帝リキニウスを10年後に倒してローマ帝国を単独支配するなんて…やりすぎな感じがします。ウィキペディアでは、こんな記事も書かれています「コンスタンティヌス1世の功罪」。 [4]

(コンスタンティヌスは、日本正教会では正式には「亜使徒聖大帝コンスタンティン」と呼称されているそうです。そういえば、キアヌリーブス主演の「コンスタンティン」っていう映画がありましたね。私は観ていませんが、ジャケットでキアヌリーブスが険しい顔つきで十字架を持っています。宗教の話が絡んでいる映画のようですね。面白そうです。)
<キリスト教の国教化>

313年のミラノ勅令によって、ローマ帝国の公認宗教となったキリスト教は帝国の宗教政策の一環に組み込まれることになりました。コンスタンティヌス帝の宗教政策は「一つの帝国、一つの教会」と表現されますが、これは一人の独裁的な皇帝の意志によって、帝国を再編成しそのために特にキリスト教会を利用することを意味しました。
この政策を進めるため、キリスト教徒の集中している東方に新都コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)が建設され、330年に異教の影響力が強いローマから帝都が移されました。
さらに帝国にふさわしい組織と信仰を持つ、統一された「一つの教会」を形成するため、対外的には教会の権威を高め、内部的には教会の統一が図られ、そのため分派や異端は厳しく処罰されました。
また国内は大きな教区に分けられ、それぞれの中心地にある教会の主教が総主教となりました。まず325年、ローマ、アンティオキア、アレクサンドリアがニカイア公会議で承認され、さらに381年、コンスタンティノポリスがコンスタンティノポリス公会議で、451年エルサレムがカルケドン公会議で承認されて五つの総主教区が誕生しました。
こうして教会の組織が帝国の組織とますます似通ったものになり、両者の一体化が進んでいきました。
その後ローマの伝統宗教を復活しようと試みたユリアヌスのような皇帝も現われましたが歴代の皇帝は大体キリスト教を支持しました。
そして392年テオドシウス帝の時代に異教が全面的に禁止され、キリスト教はローマの国教となりました。

キリスト教の教典が統治のために役立つから国教となったというより、しつこいキリスト教会を鎮めることは不可能だし大勢だから、いっそのこと仲間になって統治に利用したということでしょうか。実際、ミルウィウス橋の決戦でコンスタンティヌスが十字架を旗印として戦ったから、キリスト教を信仰するようになったなんて…教典など関係なく、ただのおまじないとしかいえません。キリスト教の教典の内容の良し悪しではなく、ユダヤ教や多神教よりも、楽に信者になる=仲間を作ることができるキリスト教は、大勢になるため国の統治に利用され、それによってさらにキリスト教会の地位が増し、信者になりたがる人も増える。→より大勢となったため、テオドシウス帝がさらに統治に利用するため国教と指定した、ということでしょうか。
参考HP
http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/kirisitokyou15.html
ウィキペディア

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