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2008年02月25日

旧大陸における鉄器の発達の歴史

こんにちは。歴史書の中で最初に鉄器を武器として使用したのはヒッタイトですね。
その後メソポタミアから周辺地域に鉄器の使用が広がっていきますが、今日は旧大陸における鉄器の発達の歴史と、その背景について調べ調べてみました。
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■人類が鉄を知ったのは隕石から

 古代のオリエントには、エジプト語で「天よりの黒い銅」、シュメール語で「天の金属」という表現で記録されている金属があったが、それらは「隕鉄」のことであると解釈されている。シュメール人のウルの遺跡から紀元前三〇〇〇年ごろの鉄片が発見されたが、それも隕鉄であった。これらのことから、人類と鉄との出会いは隕石からであったと思われる。
 この不思議な金属に、人びとは畏敬の念をもったのであろう。小アジアやギリシアで、隕石を聖なる石として祭る風習も残っている。現在でもイスラム教徒の崇拝を集めているメッカの力ーバ神殿の黒い石も、巨大な隕石ではないかと考えられている。

「物が語る世界の歴史」鉄-前編より)
地球の内部は鉄で出来ていることは知られていますが、古代の人々はそんな地球の内部を知るよしもありません。やはり人類と鉄の最初の出会いは「隕石」からという説が有力な気がします。
しかしそれなら世界各地にありうるわけですが、鉄器を初めに使用したとされているのは、旧大陸メソポタミア地方のヒッタイトです。
■古代の精錬法

●自然冶金
地表面に露出した鉄鉱石の上での焚火(たきび)や山火事などによって鉄鉱石が「自然」に還元されて、鉄ができることもある。
●酸化鉄の「低温」還元(800℃程度の温度での還元)による低炭素濃度の鉄の製造法の歴史的展開
B.C.3500年頃からの銅精錬の開始、B.C.2000年頃からの青銅精錬の普及に対して、鉄精錬はB.C.1500年頃から始まったと考えられている。
 ただし実際に鉄製工具などが広く使用され、鉄器時代といえるようになるのは、鉄精錬法を独占していたヒッタイト王国が崩壊したB.C.1200年以降のことである。
●低シャフト炉(ルッペ炉、レン炉など) — 人力による冷風送風(人力フイゴ)
炉の高さ1m前後、直径40-50cm程度の大きさ
最初は谷から吹き上げてくる山腹の風を利用した自然送風、紀元前2ー3世紀頃よりフイゴを利用した手押し送風または足踏み送風へ
日産数kg
鉱石から得られる鉄の量は50%以下
レン炉の炉内温度は千度前後→半熔鉄(海綿鉄、ルッペ)を生成、それを「ハンマーで叩き割り適当な大きさにしてから、加熱して金床でたたき、中の不純物を取り出すとともに、鉄を適当な形に成形する」という鍛造過程を通して鉄を精錬。
●人力ハンマーによる鉄の鍛錬
ルッペ(不純物を含むとともに海綿状態になった鉄)の生成
ルッペを熱しながらハンマーで鍛造することでスラグなど不純物を取り除き、塊状の鉄を生成

(佐野正弘氏「技術史入門講座、製鉄技術史(1)」より)
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([出典]奥村正二『製鉄製鋼技術史』伊藤書店、1944年のp.17の図7,8,9)
この頃のメソポタミアは非常に乾燥した地帯であり、「自然冶金」や山腹の風を利用した自然送風のフイゴ技術の発見につながる下地はあったように思います。
しかし精錬技術の発見だけではなく、アステカの様な装身具としてではなくそれらが「武器」としての使用へと発展して行ったのは何故なのでしょうか。
■鉄がオリエントを統一した

 分裂と抗争をくり返していたオリエント世界はやがてインド-ヨーロッパ語族の移動による大きな刺激を受けることになる。オリエントに移動してきたインド-ヨーロッパ語族の活動によって、エジプトとメソポタミアの両文明は相互に接触と交流を深め、やがて両文明が統一されていく情勢がつくられていったのである。なかでもインド-ヨーロッパ語族に属するヒッタイト人(ハッチ人)は、紀元前二〇〇〇年ごろ小アジアのボガズキョイを首都に勢力をふるい、バビロン第一王朝を滅ぼし、エジプトの新王国とも戦ってその領域を拡大した。
 ヒッタイトはアルメニア地方で開発されたと思われる製鉄技術を継承して、国家の保護のもとに製鉄業を営み、近隣諸国の王に鉄剣を贈与したりした。ヒッタイトの強さの秘訣は、その優れた鉄製の武器にあったとされる。ヒッタイトは、鉄器をオリエントに伝えるとともに、メソポタミアやエジプトの文化をエーゲ海やギリシアに伝える役割をも果たした。
 セム語族のアッシリア人は、バビロン第一王朝のころにはすでにアッシュールを中心に商業活動を行っていた。その後はインド-ヨーロッパ語族のミタンニ王国に支配されたりしていたが、その間にヒッタイトやミタンニから鉄器の使用や騎馬の技術を学びとって、しだいにその勢力を増大させていった。紀元前九世紀に入ると、アッシリアは鉄製の武器と強力な騎馬隊を使って周辺を侵略して領土を拡大し始め、紀元前六七一年にエジプトを征服し、初めてオリエントの統一を達成した。
 アッシリア王国が大帝国に飛躍する基礎を築いたのはサルゴンニ世(?~前七〇五年)であるが、コルサバードにある彼の宮殿跡から実に一五〇トンにものぼる鉄器が発掘されたことをみても、オリエントを統一せしめた原動力の一つに鉄があったことが理解できよう。

「物が語る世界の歴史」鉄-前編
新大陸と異なるのは、このように常に高い同類圧力による緊張状態が続き、そういった度重なる抗争を完全制覇できるだけの高い殺傷能力を持つ武器が求められていたという圧力構造があったのではないかと思います。
そうするとマヤやアステカも同じように戦争はあったのですが、戦いの目的も相手を完全制圧(=皆殺し)にする必要は無かったのかもしれません。このあたりが旧大陸と新大陸における戦争の違いや、国家による支配の仕方の違いに繋がってくるかもしれませんね。

投稿者 saah : 2008年02月25日 List  

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コメント

平野が1割というのは驚きで、意外と少ない。中国の人口は、相当平野部にひしめき合っている感じがします。
中国の華僑などは、国内の飢餓状態から脱出するために海外に活路を求めたと言われますが、それも分かる感じがしました。
現代でも砂漠化が進むと、中国の食糧事情もさらに悪化する可能性があります。
地図を見ているといろいろ想像できて面白いですね。

投稿者 Hiroshi : 2008年3月20日 00:42

Hiroshiさん
当時は、やはり地形や気候が外圧であったと思います。これを正確に捉えることは大事ですね。
後は、古代にひきつけて言えば、青銅器の街があったり、農業の街があったりと、地域によっても様々な産業があったようです。この辺も調べていきたいと考えてます。

投稿者 さーね : 2008年3月22日 21:48

暖温帯ってなんですか

投稿者 匿名 : 2013年1月12日 20:23

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投稿者 匿名 : 2013年1月12日 20:23

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