縄文人の集団規模と共認の関係 |
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2006年11月09日
シュメールってどんなところ?
田村です。
シュメールについて調べていますが、そもそもシュメールが存在したメソポタミヤ南部とはどんな地域なんでしょうか?調べて見ました。
以下、南風博物館より引用
>メソポタミア文明の発祥の地、メソポタミア南部平原の遺跡を、時代ごとにまとめてみた。
ティグリス・ユーフラテス川が複雑に入り組み、またその多くの支流が織りなして造りだした広大な平野は、ほとんどが湿地帯であった。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/nanpu/history/babylon/maps/southernmesopotamia.html
ザクロス山脈と南西アラビア砂漠の乾燥地帯の間に巨大な川があり広大な湿地が広がっている地域。
シュメールの都市のあったのは南部平原の「エリドゥ」「ウルク」「ウル」など11箇所の遺跡があるあたり、海岸線からだいたい200kmの楕円形の範囲で、高低差は30m程度、船なら2日ぐらいの範囲です。
「エリドゥ」「ウルク」は海沿いの都市です。(現在の海岸線は約200km先になっていますが)
ただし、北北西に離れた「アッシュール」はウルクからは約400km離れた辺境?です。
広大な地域ではありますが、メソポタミヤ地域全域を見たとき、シュメールが出現する以前の生活圏が既に地中海からペルシャ湾まで、平地から山地まで広がっていた事を考えると、シュメールはある意味で偏った地域だと言えます。(元々「シュメール」とは平地、「アッカド」は丘陵地という意味だそうです。)
こういう地域分布を考えると、(大胆な比較ですが)日本において、縄文人が住んでいた地域と、弥生~古墳時代に沖積層平野が新しい生産技術=水田として開発された関西や九州地域の分布に相似しています。
弥生時代以降、日本では部族間の若干の戦闘が起こり、やがて国家として統一されていきますが、
これがもし弥生人でなく私権性の強いシュメール人で、また、地域がまっ平の200kmの楕円形の範囲であったら・・・・
その場合、戦闘の激しさは尋常でなく、集落は(環状集落程度ではたちまち侵略されるので)ある距離を空けて要塞化する事ではじめて戦闘が一定の均衡に至ることになるでしょう。
点在するシュメール都市の遺跡は、当時の新しい生産技術と戦乱の激しさを示しているのではないでしょうか?
投稿者 nandeya : 2006年11月09日 TweetList
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コメント
投稿者 Hiroshi : 2006年11月10日 23:45
こんばんは!
>日本最古(16500年前)の土器
・・・・ってすごいですね。土器は日本と東アジアで圧倒的に古くから発達したようですが、こんなにふるくからあったんですね。写真でみると、なんか煮炊き用とか、貯蔵用の簡素なやつと、お祈り用に分かれている感じがします。
こうして土器を眺めていると、1万年くらい前に戻って、万物に精霊を感じ、宇宙を感じ、生き物や仲間の息吹を感じていた縄文人の世界に同化できるような不思議な感覚になります。