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2008年10月30日

ハンムラビ王の中央集権国家について

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画像は南風博物館からお借りしました。
 こんばんは、カッピカピです。今日はみつこさんの記事を引き継ぐ形で、ウル第三王朝時代の中央集権国家とハンムラビ王の中央集権国家の違いについて、同じく福岡教育大学城山西洋史 1998年卒業論文 小林のぞみさん「古代メソポタミアの社会」を引用、要約しながら書いてみたいと思います。
 まず、ウル第三王朝が長続きしなかった理由については、
①膨大な官僚、職人、労働者を抱え、絶えず厳しい監督を必要とする王室大経済は、領域国家の内部にあっては、もっと狭い領土に限られていたシュメール都市国家の枠内におけるほど、能率のよいものではなかったこと
②発展しつつある私的所有は廃止も決定的抑制もされなかったこと
③地域による貧富の差が明白になってきたこと
が挙げられています。このことから、厳しい監理を行うことで王室側が、どんどん疲弊していくのとは反比例に、貧富の差が拡大することで、冨が集中し、各地域の支配者の政治権力が王室のそれに拮抗し、ついには逆転して、崩壊してしまったと分析できます。
 では、ハンムラビ王の中集権国家の仕組みはどのようなものだったのでしょうか。ウル第三王朝時代の欠点は克服されていたのでしょうか。
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 ハンムラピ王は、ウル第三王朝後のバラバラに個別化された社会を改めて王を中核とした中央集権的支配体制に組織しなければなりませんでした。
 しかし、一度自由と自らの土地を手にした人々を、再び、ウル第三王朝で敷かれていたような搾取と抑圧の体制に組み入れることは、大衆の反発を煽るだけで、国家統一とは真逆のベクトルに向かうことは明らかでした。そこで、ハンムラピ王は、生産の点では分散化・個別化を認めながら、管理と所有を集中させることで中央集権化を図ったのです。
以下に、管理と所有の集中による中央集権化された支配体制について上記の論文から引用します。

 第一に、ハンムラピ王は、土地の王領化を推し進めた。もちろん、私有地がなくなったわけではないが、領土の拡大によって新たに得られた領域の特に農村地域は王領化された。その上で改めて土地を人民に授与し、代わりに賦役などの義務を負わせた。義務を怠った者からは耕地を取り上げ、新たな人民に授与した。授与された土地は依然として宮廷つまり王の所有地ではあるが、しかし、土地と結合している義務を受け継ぐ条件で、それを家族の内で相続することもできた。このように土地を継続して利用できることは、土地利用に刺激を与えるものであった。占有者は土地を熱心に耕作するし、自ら実行しないまでも全ての農作業を自分の責任で管理することになる。それゆえに王の側としても畑仕事の監督として官吏を割り振らなくてもすんだ。また、小作料に関する改革を行い、様々な条件が存在していた小作料について一定の基準を設けたと考えられている。この規定は、賦役の遂行、とりわけ兵役に徴募する住民を経済的に保護する上で重要であった。

 

第二に、ハンムラピ王は租税の徴収に力を入れていた。バビロン第一王朝治下の自由民・奴隷はすべて王室にたいする貢租と賦役の義務を負っていた。高級官僚、書記、軍人、裁判官、王室に付属する農民・漁師・手工業者、商管はその職務によって王に奉仕した。王と官吏たちのきわめて数多い手紙は、租税問題を取り扱ったものである。とくに王領地の割り当てと王領地の耕作者に対する賃金についての業務が圧倒的に多く扱われている。こうした業務こそが支配者のもっとも重要な経済的支えであった。

 

第三に、王は、灌漑網の維持と拡大に力を注いだ。水路は、王のもとにある「灌漑施設局」によって絶えず管理されていた。また、王は、船による輸送にも船の建造にも気を配っていた。船は、宮廷や大都市の住民の生活に重要な食料や徴収された租税を運搬したし、家畜、木材その他の物資も運んだ。兵員輸送船として投入されたことは言うまでもない。それゆえに、バビロニアの水路は、幾重もの観点から見て国土の生命線であり、それを制するものが重要な権力の手段を手に入れたのである。

 

第四に、神殿の権力の縮小が上げられる。神殿は、あるていどの勢力を保ってはいたが、以前のような経済と行政の中心的な位置には、いまやもういなかった。神殿は、エンシと呼ばれる支配者によって、都市国家を統合するための媒体とされ、もはや王権の中に組み敷かれ、個人の信仰の場、裁判の場、教育の場、さらには金融業を営む場に変わった。

 

第五に、地方総督の権限の縮小が上げられる。アッカド王朝のサルゴン王の場合、王朝の地方都市の総督は、もともとその都市のエンシで、以前から引き続き、あるていどの独立的権限を持つ副王のような存在であった。しかし、ハンムラピ王の場合、地方総督には、司法、財政の権限はなく、純粋に行政上の問題のみの処理を担当させた。とくに司法権は、全ての終審権を王自ら握り、地方には王の代理の裁判官が任命された。そうした裁判のよりどころとなったものが、ハンムラピ法典なのである。

 以上のように中央集権化された支配体制が、ハンムラピ王の権力の基盤であったようです。
 ウル第三王朝においては、王権の基盤は、社会・経済的側面では、広大な耕作地と巨大な労働集団、整備された管理組織からなる王室経済でした。その広大な領土を支配するには限界がありました。それゆえに、王権を維持する手段として、イデオロギーの整備に頼る姿勢が強くなり、遂に王自らを神格化するに至ったのです。王の神格化にともない、その思想を世に普及させるために、王を神とした神殿が建立されました。王室経済は神殿を従属させながら、一方で、神殿に依存していたのです。
 そのようなウル第三王朝に対し、ハンムラピ王は自らを神格化せず、牧人に形容したそうです。次回はこの辺りを・・・・
参考文献

投稿者 hi-ro : 2008年10月30日 List  

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コメント

なるほど、1~3は面白いテーマ設定ですね。
中でも個人的には1番が知りたい。
アフガニスタンの歴史から始まって・・・調べていくと意外と宗教の混在地だったりして。旧くはインダス文明の周辺地であり、メソポタミアとインダスを陸でつなぐ陸路だったアフガニスタン。
なぜ争いが絶えないのか?その本質は宗教なのか、民族なのか?あれほど毎日新聞に乗っているのに誰も知らないアフガニスタンの歴史。このブログで明らかにしていくことを期待しています。

投稿者 匠たくみ : 2008年11月28日 01:19

>現代的な「なんでだろう?」から、再度アプローチしてみたいと思います
こういう視点は大事だと思います!
期待をこめて、応援をしてます!

投稿者 さーね : 2008年11月28日 10:55

匠たくみさん☆ さーねさん☆
コメント、応援、ありがとうございます(^^)
すごく活力沸きました~
行き詰った現代社会の原因はなに?これからどうする?
という視点を、ちょっとでも記事の中で展開することで、もっともっと読みやすい、すっきりしてもらえる記事を書けるのではないかと思っています。
【チーム・宗教】【チーム・ユダヤ】共にがんばりまっす☆

投稿者 みつこ : 2008年11月28日 22:13

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