シリーズ「日本人は、なにを信じるのか?」~プロローグ |
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2012年06月09日
「次代の可能性をイスラムに学ぶ?」~3.イスラム世界の源流とは_イスラム教前夜の状況~
イスラームとは何か?と考えるとき、「イスラーム」という言葉には何かとらえどころが無いところがあります。ユダヤ教、キリスト教の流れを汲む、兄弟関係にある一神教を指すこともあり、アッラーを信仰する人々の集団を指すこともある。また、この宗教を国教とする国家や政治組織を指したり、様々な文化的な価値感を指すこともある。「イスラーム」は様々な側面を持っています。
また、宗教思想の面では、イスラームを代表するスンニー派とシーア派は、多くの点で著しく異なり、正反対ですらある。それにも係わらず、イスラームとして全体が統合されている。
このようなイスラームを知る上で、今回は、イスラーム誕生前夜の社会状況を明らかにし、イスラム教の源流を考えてみます。
<アラビア半島の衛星写真>
イスラム教が誕生したアラビア半島は、その大部分に沙漠が広がり、人の居住の可能なオアシスが点在するという厳しい自然環境です。今から3000年ほど前ごろ、その半島にセム系の遊牧民=アラブ人が活躍し始めます。
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アラビア半島の遊牧民は「商売」こそが生活の糧だった
アラブ人はもっぱら「商売」を生業にしていました。厳しい自然環境ゆえ、牧畜や農業では自給自足することはできず、家畜から取れる加工品や農産物を自ら販売し、時には家畜で荷物を運搬するというように、彼らは商品生産者であり、運送業者であり、また商取引をする商人でした。
彼らは非常に強い血縁意識を持ち、その血縁意識を中核に、父方の系譜をもとにした「部族」を形成していました。この当時の信仰は、様々な神様を信仰する多神信仰で、聖岩・奇岩・偶像を氏神として尊崇し、各部族集団ごとに特定の守護神を持っていました。部族間には、放牧地を巡る領域争いや水場の支配権争いなどの縄張りを巡る争いが絶えずあったようです。
半島を統一するような国家は登場せず、また、周辺の国家からの支配を受けることなく、人々は商売を生業にして細々と暮らしていましたが、5世紀頃、イスラーム誕生のきっかけとなる、大きな社会状況の変化が起きます。
アラビア半島を取り巻く状況の変化
~商業圏の国際化により私権獲得の可能性が開かれた
イスラーム誕生のきっかけとは、サーサーン朝ペルシャとビザンツ帝国の間で続いていた戦争でした。戦争がない平和な状態であれば、この両国の国境付近、シリアからメソポタミアのあたりというのはちょうど東西世界の通商の十字路となり、世界の富が集まってくる地域に相当していました。
<通商ルートの南下>
ところが戦争によってこのあたりが通れなくなり、通商ルートが大きく南へ迂回し、「絹の道」や「海の道」で運ばれた商品が、アラビア半島を経由するようになります。そのちょうど中継点に当たるメッカ(マッカ)を中心に諸都市が繁栄し、アラブ人は交易の民として莫大な利益を得ることになります。アラビア半島の商業圏は、国際化・拡大化の波に飲み込まれていきます。つまり、私権獲得の可能性が一気に開かれたのです。
富の蓄積⇒自我の肥大⇒社会規範の崩壊
5世紀後半に、メッカを支配していたのが、ムハンマドが属するクライシュ族でした。メッカの繁栄は、この地を治めるクライシュ族の財力と軍事力を飛躍的に伸ばし、その力を背景にクライシュ族は周辺の部族の領地にも経済進出し、遠隔交易品・土地開発・高利貸しの三大事業を柱に、ますます私財を蓄積してきます。
また、メッカには、フバル、マナート、アッラート、ファルズなどと呼ばれる100以上の神々を祀る神殿が設けられていましたが、これらの神殿に絶え間なく訪れる巡礼者を対象にした旅館や居酒屋や商店などの観光業による利益も主要な収入源でした。
商売の多面的な展開とその独占による経済的な繁栄は、同時に人々の自我を肥大させ、様々な社会問題を生み出していきます。今まで部族社会の中では、貧富の差や孤児や病人や寡婦といった社会的弱者の問題は、血縁的な連帯意識によってある程度緩和されていましたが、「自分さえ良ければいい」といった自分第一の価値観が蔓延するとともに、弱者救済、相互扶助といった社会の調整機能が機能しなくなって行きました。
また、「今が楽しければいい」といった目先の快美収束から、人々は飲酒や賭博に明け暮れるような怠惰な生活を送るようになります。このような伝統的な部族の規範の崩壊は、特に若者たちに部族の一員としての役割や目標の喪失を招き、無気力・無関心を蔓延させていったようです。
イスラーム以前を「無道時代(ジャーヒリーヤ)」と呼びますが、まさに無道=規範なき社会だったと言えそうです。
預言者ムハンマドの登場~メッカ期のイスラーム
このような社会問題が噴出する中で登場したのが、アッラーの啓示を受けた預言者ムハンマドでした。
まず、ムハンマドは親密な友人や近縁の親戚を対象に説教を始めます。最後の審判者であるアッラーの威厳、恐怖を煽り、「なんじら悔い改めよ、恐るべき神の審判は近づけり」と説き、“弱者救済”“相互扶助”こそが帰依の証と説きます。商人たちからは相手にされませんでしたが、身内の他、社会的な弱者や社会に憂いを感じている若者など、少数ながら信者を獲得していきます。
そうして3年が過ぎたころ、新たな啓示を受けたムハンマドは、公然と街の人々に向かって説教を始めます。すると状況は一変、商人たちから猛反発を食らうことになります。なぜなら、創造主たるこの世の全ての所有者、唯一絶対の神アッラーへの帰依とは、自部族を正当化する守護神信仰の否定であり、同時に今手にしている商業的独占権、地位、身分、蓄財など、全ての私権を手放すことを意味していたからです。私権に収束し、自我の塊になってた商人たちがそれを受け入れるわけがく、それどころが私権を脅かす危険分子として、ムハンマドへの迫害が始まります。
<アラビア半島>
そして、遂に暗殺計画がたてられるに至り、ついにムハンマドはメッカを捨て、近くの街メディナ(マディーナ)に移住(聖遷(ヒジュラ))することを決断せざるを得ない状況に追い込まれます。
イスラームの源流とは?
ここまでの、イスラーム以前~ムハンマド登場までの流れから、メッカ期のイスラームを整理します。
●イスラームが実現しようとした社会とは?
~現実社会での商売での利益獲得(私権獲得)の肯定
アラビア半島の人々にとって「商売」は無くてはならないもの、生活を営む前提でした。そのような社会に登場したイスラームもまた、『商人の宗教』と言われるように、宗教と商売が一体のもの、分けては考えられないものでした。
実際、クルアーンは、商業専門用語に表現に満ちています。例えば、厳粛な最後の審判の日すら商人言葉で描かれます。「(この世で信仰に背いた人々は)せっかくの神の御導きを売りとばして、その代金で迷妄を買い入れた人々。だが彼らもこの商売では損をした。すっかり宛がはぜれても儲けそこなった。」(2章15節)言葉だけでなく、考え方そのものが商売的なのです。
コーランでは次のような行いを「善行と美徳」としています。
誠実、正義、禁欲、感謝、忍耐、信頼、悔悟、慈悲、嘉み(よしみ)
これらの、商人の道徳・規範に貫かれた社会がイスラームが望んだ社会でした。
●イスラームが変えようとした社会とは?
~私権獲得に伴い、自我肥大の否定
このようにイスラームが商人の宗教であるならば、変革すべき現実とは、「商人の道徳・規範が崩壊した社会」だったはずです。
コーランでは次のような行いを「悪行と悪徳」としています。
嘘、不正、強欲、恨み、怒り、見せかけ、自惚れ、妬み、嫌悪
つまり、商人の道徳、規範の反対、商売の妨げになる行為です。
ムハンマドは次のように説教を展開しています。
・自分第一の価値観や目先の快美収束の否定
・それらの意識を生み出す、商売の独占や利息などの不労所得の禁止
・さらに、部族間の私権闘争それを正当化する各部族の守護神信仰の否定
このように、イスラームが否定したのは、商売の利益(私権獲得)そのものではなく、その結果生じる商人の道徳・規範の崩壊=自我肥大であり、守護神信仰で自己正当化する古い部族社会でした。
●メッカ期イスラームの限界
しかし、メッカ期のイスラームの教えは、それを実現すための理論も行動様式も、まだ持ち得ていなかった・・・
ムハンマドは、「最後の審判の恐怖→現実否定→あの世での充足→そのために現世を悔い改めよ」と説きましたが、これは、当時のアラビア半島に浸透しつつあったキリスト教の影響を大きく受けていたものと思われます。しかし、当時のアラビア半島の社会状況も人々の意識も、キリスト教が登場した背景とはあまりにも異なっていました。
武力により民族や母集団を失い、現実の私権獲得の可能性が閉ざされた人々にとって、キリスト教の「現実否定→頭の中だけの代償充足」は唯一の救いになりました。
しかし、アラビア半島の人々は、現実の商売での利益獲得(私権獲得)の可能性は開かれてたいました。また、規範が崩壊しつつあるといっても部族社も残存していました。当然、そのようなアラビア半島の人々にとって、キリスト教的な「現実否定→頭の中だけの代償充足」という教えは、受け入れられるはずもなく、その必要性もなかったのです。(だから、当時の信者は社会的弱者が中心)
聖遷(ヒジュラ)から始まる真のイスラーム
しかし、これでムハンマドが希望を失ったわではありませんでした。部族を失い、古い部族社会のしがらみから脱したムハンマドは、もっと広く社会を対象としてイスラームの構築を目指します。その中核こそが、「ウンマ(ムスリム共同体)」です。それまでのムハンマドは、いわば個々の信者を導く説教師に過ぎませんてしたが、メディナに移住してからは、法律の制定や政策の決定や生活の指針について、ムスリム共同体の指導者へと変貌します。
イスラームの歴史では、メディナへ聖遷(ヒジュラ)した622年を「ヒジュラの年」と定め、ヒジュラ暦(イスラーム暦)元年と定めています。ヒジュラによって、アラビア半島の「無道時代(ジャーヒリーヤ)」は終わり、歴史はイスラーム時代に入る。つまり、ヒジュラから真のイスラームが始まちます。
では、「ウンマ(ムスリム共同体)」とはどんなものだったのでしょうか? どのような言葉で人々を導き、イスラームを統合したのでしょうか?
次回、それらを明らかにし、イスラームの本質に迫ります。乞うご期待ください。
(参考文献)
井筒俊彦著「イスラーム文化」
井筒俊彦著「イスラーム生誕」
水谷 周著「イスラームの善と悪」
タミム・アンサーリー著「イスラームから見た「世界史」」他
投稿者 sai-yuki : 2012年06月09日 TweetList
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コメント
投稿者 富田成一 : 2013年5月2日 10:12
>そうしたら、東北の津軽十三湊は、高句麗の末裔ですか?
富田様、コメントありがとうございます。
非常に面白い視点の質問ですね。
十三湊は広域の市場拠点です。高句麗の末裔とも言えますが、渤海交易を通じて高句麗以降の半島と繋がっていたと思われます。末裔かどうかまではわかりません。
投稿者 tano : 2013年5月2日 19:12
越は、中国の「呉越同舟」の越の国から来た人々では無いのですね。
海を越して到着、なるほど。
千年以上前の名前が、現在も秋田、能代、男鹿として使われている事に誇りを感じました。
小野小町が秋田出身説も、関東より早く京とつながったからと考えると自然ですね。
投稿者 風雅こまち : 2013年5月3日 18:23
いつも興味深く読ませていただいています。
先日、岩手県盛岡市へ行ったのですが、「盛岡」の名は江戸時代南部藩によって改名されたもので、それまでは、「不来方(こずかた)」といい、城砦は「不来方城」と呼ばれていたそうです。
城は南方からの攻撃に対する防衛を意識して造られていました。
伝説では、鬼が来ない場所という事ですが、東北から見て、敵が来ない場所という意味があったのではないかと推測されます。
調べてみると面白いかも・・・・
投稿者 tamura : 2013年5月4日 18:04
tamuraさんコメントありがとうございます。
盛岡の元の名前が不来方という名称なんですね。
地名は土地の人が付けるもの。
確かに敵が来ない場所というほうが説得力がありますね。
また、コメントお待ちしています。
投稿者 tano : 2013年5月5日 11:45
高句麗は、夫余系の国家で大和朝廷とは無関係ですね。伽耶系渡来人って存在しない民族ですか?伽耶の支配層は倭人ですけど?高句麗や百済からの難民がこちらに渡ってきてるのはまちがいないでしょうがその彼らが王朝を立てるとかありえないでしょう。
投稿者 ネチズン : 2013年5月24日 12:15
これはとても説得力があります。
そうしたら、東北の津軽十三湊は、高句麗の末裔ですか?