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2009年02月18日

イスラムの夜明け ~メッカと国際情勢~

こんにちは
【チーム宗教】です 😀
先日のMITSUKOさんの記事に引き続き、イスラム教の背景となる、当時の国際情勢や部族の内情について調べてみました
今回のテーマは大きく3つ
①イスラーム以前のアラビア半島はどんな感じだった?
②当時の国際情勢は?なんでメッカは繁栄したの?
③イスラム創始者のムハンマド(マホメッド)の家系について
ここからイスラム教が「商人の宗教」と呼ばれる所以がさらに分かります
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さて、さっそくテーマ別に見ていきましょう
①イスラーム以前のアラビア半島はどんな感じだった?
イスラム教創設以前の時代のことを「ジャーヒリーヤ時代」と言います。「ジャーヒリーヤ」とは「無知」とか「無明」を意味します。ちなみにもう少し厳密に定義すると、イスラームが誕生する前の約1世紀間を指します。
ジャーヒリーヤ時代は「部族社会」における抗争の時代でした。部族内部の小さな氏族集団同士が争うときもありましたし、部族間抗争と言われるように、比較的大きなレベルで争いが起こるときもありました。また、部族同士で連合を形成して大抗争が起こることもありました。
抗争は、放牧地を巡る領域争いや水場の支配権争いを引き金にして起こったようです。この時代は慢性的に戦争が行われており、戦利品収入が生計手段の一部となっていたとも言われています。
どうやら昔から略奪が常態化した部族だったと言うことができそうです
②当時の国際情勢は?なんでメッカは繁栄したの?
5、6世紀の西アジアには、ササン朝ペルシアとビザンツ帝国という2大帝国がありました。東にササン朝、西側にはビザンツ帝国があり、この2つの帝国がちょうどチグリス川とユーフラテス川の間、北はアルメニアからシリア砂漠に向かうラインの辺りで拮抗していました。
なんと言っても当時の交易路といえばシルクロード。
東と西を結ぶ一大交易路です。しかし、6世紀後半から7世紀にかけて、先の二国の争いが激化するにつれ、そのシルクロードが通れなくなってしまったのです。また、ペルシア湾からユーフラテス川を経由して北上するルートも衰えていきます。
そこで、紅海を利用して大きく迂回するルートが強化されました。アラビア半島南端のイエメンからアラビア半島西岸を通ってガザに抜けるというルートでした。そこで隊商(キャラバン)貿易が盛んになっていきました。実は、このルートの途中にあったのがメッカでした。メッカはこの内陸ルート上の交易によって繁栄していったのです。
③ムハンマドの家系について
ムハンマドの家系図を遡ると、クライシュという人物に行き当たります。そこからこの家系をクライシュ族と呼んでいます。さて、このクライシュ族はもともとメッカの東側の丘陵地帯で遊牧生活を営んでいたと言われています。
ムハンマドの5代前のクサイイという人物の時代(5世紀末頃)に、メッカに進出、定住化したと言われており、南アラブ系の人々をカーバ神殿(神の館という意味)から追い出し、支配権を握りました。メッカは商業都市かつ宗教都市として知られており、多くの巡礼が集まり、巡礼に伴っても商取引が行われていました。このようなメッカがヒジャーズ地方(アラビア半島西岸地方の呼び名)における交易の中心地になったのは、このクサイイの時代です。
その後、ムハンマドの3代前のハーシムという人物が出てきます。実はムハンマドを家系的に表現すると、「クライシュ族のハーシム家のムハンマド」になるんだそうです。それは、このハーシムという人物がメッカの繁栄に多大な貢献をしたためなのです。
彼の時代に、先述したイエメンからシリアのガザに向けての南北の交易ルートが確立され、メッカは国際交易レベルでも注目される商業都市に発展しました。彼はビザンツ帝国から商業特権をもらったり、ガザに拠点を設けたりしました。ちなみに、当時アラブの間で、ガザは「ハーシムの町」と言われていたようです。
南北の交易ルートが確立され、そこの支配権を持ったことから、クライシュ族の商人達は定期的にキャラバンを編成することが可能になりました。メッカの大キャラバンはこのハーシムの時代から行われ、それがメッカを飛躍的に繁栄させました。
夏には北に向けたシリアキャラバン、冬には南に向けたイエメンキャラバンが町を挙げて編成されたようです。大規模なキャラバン隊では、2500頭のラクダを連ね、商人を除いて護衛と付き添いだけでも300名くらいを擁し、香辛料、革製品、インドや東南アジアからの物品、アフリカの金、象牙、奴隷などが運ばれていった、と言われています。
そういった下地が揃った上で、ムハンマドが登場し、イスラム教の創設に繋がっていくのです。
この歴史的な流れをおさえると、イスラム教が商人の宗教と呼ばれるのも納得です

投稿者 maru : 2009年02月18日 List  

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コメント

tanoさん、こんにちわ。ますますご発展ですね。
自我で生きている高塚タツは、ネットによる歴史探求の可能性に懐疑的なのですが、皆さまのご発表には勉強させていただいております。ありがとうございます。
「④資源を求めて渡来」へのご注目、さすが!
他の渡来目的とは違って、日本の領土や人民支配には関心を持たなかった人たちですから、見えにくいところから入ってきて、弥生の集落には近寄らず、お宝さえゲットできれば、さっさと引き揚げただろうと考えます。

投稿者 高塚タツ : 2009年4月1日 12:21

タツさん。おひさしぶりです。(私の記事には)
なかなか衝撃的な導入ありがとうございます。
ネットの可能性<書籍の可能性
という図式をお持ちのようでなるほどです。
たしかにネット世界は玉石混交ですからね。
その中で玉を見つけるべく書籍とネットを往復している次第です。ネットだけ、書籍だけではなかなか・・・・。
ところで辰砂採掘の目的性について中国の書籍などで書かれてある記述はありますでしょうか?

投稿者 tano : 2009年4月1日 22:17

 ネットよりも書籍が優位とも思いませんが、書籍は読まなくても私有できるという、その程度の安心はあるでしょう。
 最近読んだ『毒と薬の世界史』(船山信次著・中央新書 2008年)のなかに、唐の歴代皇帝と丹薬のことが少し書いてありました。不老不死の霊薬を作り上げる煉丹術が道教の思想と結びつくというあたりで、徐福伝説が匂ってくるのですが、全体を読んで、自身の歴史観にどのように取り入れるか、読者次第でしょう。
 そもそも、秦の始皇帝は、自分に不都合な書物を焼かせた張本人でした。

投稿者 高塚タツ : 2009年4月2日 22:22

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