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2008年11月14日

ユダヤのその後

こんにちわちわわです。
かなり前になりますが べジーが ユダヤがイスラエルを建国した歴史 を紹介してくれました。
http://blog.kodai-bunmei.net/cgi/mt-tb.cgi/187
jews.gif
その後どうなったのでしょうか?
ユダヤ人ってどんな民族なのでしょうか?
現在の金融を支配するユダヤについえちょろっと迫ってみたいと思います。
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古代イスラエルはアッシリアと新バビロニアによって滅ぼされ、各地に散らばっていきますが、ローマ帝国におけるパレスチナの反乱の壮絶さからユダヤ人ってどんな民族か想像できます。
The Purple Chamber ob World History さんより引用させていただきます。
http://homepage3.nifty.com/ryuota/earth/history10.html
アウグストゥスがローマの初代元首となってから100年目の紀元73年、泰平が続く帝国に衝撃を与えた属州ユダヤ(現在のパレスティナ)の反乱は8年目をむかえ、最終局面にさしかかっていた。
 反乱軍の中心だったエルサレムは3年前に数十万の犠牲者を出して陥落し、この時点で蜂起の失敗は決定的であった。それでも、死海西岸の岩山に築かれたマサダ要塞には女子供を含む967人がたてこもり、絶望的な抵抗を続けていた。ローマ軍は包囲陣を築いて要塞を封鎖し、攻城塔から雨のように石と矢を浴びせかけた。ついに城壁が破れると、籠城者はほぼ全員が自殺して果てた。
 この反乱は、パレスティナの地で多数を占めていたユダヤ教徒たちがローマからの独立をめざしておこしたものだったが、玉砕も辞さないという過激さは当時の常識からすればかなり異様であった。しかも、ローマはユダヤ教徒を過酷に扱ったわけでもなければ、ユダヤ教を禁止したわけでもない
 帝国という広域支配システムではふつう、無用の摩擦を避けるために様々な信仰が認められる。帝国がもたらす平和の中で人やモノが活発に動くようになれば、一般庶民の間でも宗教の違いはあまり問題にならなくなる。多くの神々を崇めることは人々にとってあたりまえのことだったから、その中に他の土地の神がまぎれこむことも珍しくない。たとえば、エジプトの女神イシスや、ゾロアスター教の太陽神ミトラはローマ領内で爆発的に流行している。
 ようするに、ローマの支配者にとって、帝国の一角にユダヤ教徒が存在することはべつに異存がなかった。悲劇の原因はむしろ、「帝国の臣民」に甘んじることをよしとしないユダヤ教の特異性にあったといえよう。
 ユダヤ教は、「ヤハウェ」を唯一絶対の神とし、それ以外の神を認めない「一神教」という形態をとっている。しかも、ユダヤ教徒は自分たちこそがヤハウェから繁栄を約束された「選ばれた民」だと自負していた。もともと、他の宗教に対しては非妥協的な態度を示す傾向にある。
 「選ばれた民」であるにもかかわらず、現実にはユダヤ教徒は大国に翻弄される苦難の歴史を歩んできたのだが、それは過去に神の命令に従わなかった「罪」のためであると考えられた。「罪」をつぐなうことさえできれば、「救世主」があらわれて自由と繁栄をもたらしてくれるはずであった。そのためには、エルサレムのヤハウェ神殿における祭祀を絶やしてはならないとされたから、ユダヤ教徒はどこに住んでいても毎年かならず神殿に税を送り続けていた。
 つまり、ユダヤ教徒にとって、神殿を中心とする自治を守ることはたんなる政治の問題ではなく、救われるか否かを左右する重大事だったわけである。実際、ローマ当局が他の属州なみに納税を要求し、滞納者の分を神殿から取り立てたことが大反乱の引き金となったのであった。蜂起の鎮圧後にエルサレム神殿は跡形もなく破壊されたが、過激派の残党は60年後にふたたび立ち上がり、最終的に壊滅した。
 もっとも、これによってユダヤ教徒が消え去ったわけではなかった。ローマが台頭するはるか前から、数百万におよぶ信者が地中海や西アジアの諸都市に住んでいたからである。
 神殿を失った彼らが「罪」をつぐなう手段としてもっとも重視したのが、「律法」にのっとった生活であった。
 律法とは、前5世紀頃に成立し、絶対的権威を持つとされた戒律である。分量は膨大で、死語となっていたヘブライ語で書かれ、物語の体裁をとっているため、誰でもすぐに理解できるというものではない。そこで、学者(ラビ)に師事して学習することが信者のつとめとなる。会堂(シナゴーグ)に集まって教えを学び、義務を守って暮らしていくことで、ユダヤ教徒は独自性を維持し続けたのである。
 ただし、彼らはどの地でも「少数派」であり、「救世主」があらわれるまで地上の権力者による支配を堪え忍ぶしかなかった。支配者側も、同化を拒み続けるユダヤ教徒に不快感を抱きつつも、反乱をおこさない限りにおいて独自の信仰生活を認めた。
 結局、ユダヤ教徒は律法をよすがとしつつ、多数派住民との共存への道を模索することになった。

投稿者 tiwawa : 2008年11月14日 List  

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コメント

>5万年前 シェラ・ダ・カピバラの洞窟壁画、炭化物など(その中の人骨は9000~1万2000年前の物でニグロイドに似たものだった。しかも、オーストラリア先住民、アボリジニーの頭蓋骨と極めて近いとされています)・・BBCで遺跡の紹介が放映された。<
の意味が分からないですが…
>さて、これまでの結論ですが、明らかに定説は壊れつつあります。<
定説ってどこに当たるのでしょうか?
それと、今回テーマである『⑪『新大陸に渡ったのはいつか』~新大陸への移動のルートと時期は』の結論はどこなんでしょうか?
教えてください。

投稿者 ワカバマーク : 2008年12月13日 21:44

コメントありがとうございます
確かにわかりにくい。 反省です。
1:>5万年前 シェラ・ダ・カピバラの洞窟壁画・・・・
南米の遺跡です。壁画の年代分析で5万年前の物だと、BBCが放映したものです。その遺跡で発掘された人骨が1万2000年前のもので、アボリジニの特徴を持っているということです。
ここからわかること。
・北米だけでなく、南米でも5万年前の人の遺跡がある
・オーストラリアに渡った人と同じ人の子孫の可能性がある
疑問点は この遺跡を造った人と、発見された人骨の年代に乖離があるので、この発見された人がこの遺跡を造った人の子孫かどうか?厳密にはわからない
2:>さて、これまでの結論ですが、明らかに定説は壊れつつあります。<定説ってどこに当たるのでしょうか?
定説は氷河に閉じ込められていたベイリンジアに無氷回廊が開かれたことによって人は始めて新大陸に移動できたとするものです。つまり、1万4000年前にはアメリカ大陸に人はいなかったことになります
3:『⑪『新大陸に渡ったのはいつか』~新大陸への移動のルートと時期は』の結論はどこなんでしょうか?
遺跡の年代と、DNAの分岐年代からすると、4から5万年前にすでに人は新大陸への移動を成し遂げたことになります。かつ、オーストラリアへの移動を可能にした航海技術からすれば、海岸線伝いに、新大陸へ移動した説が有力と思います。
つまり、寒冷適応するまで、待っていたのではなく、先に海岸沿いに移動した人と、後日無氷回廊を通って移動した人とがいたのだと思います。

投稿者 dokidoki : 2008年12月15日 13:42

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