2008年11月6日

2008年11月06日

継体は諜報機関を持っていた?

現皇室との血縁が確認できる最古の天皇と言われる継体天皇ですが、その出自を含め、多くの謎に包まれています。
その謎のひとつに、彼が天皇継承の際に、相談を持ち掛けたという河内馬飼首荒籠との関係があります。
当時、馬飼は「下賎の者」とされていました。
今回は、その謎を探りたいと思います。
    我が国最初の諜報機関は馬飼部より
    

日本書紀の第十七巻、継体天皇元年の条に河内馬飼首荒籠 (かわちうまかいのおびとあらこ) と云う人物が出てくる。 彼は北河内の樟葉の辺りの淀川の河川敷に開いた牧場で馬を飼うことを生業とし、馬飼部と呼ばれていた部族の首長である。 この馬飼部が、組織的な諜報機関としては、おそらく、我が国最初のものではなかったろうかと思われるのである。

時は今から千五百年も前、六世紀初頭の事。 日本書紀はそのあたりの状況を大略次のように述べている。
男大迹 (おおと) の王、後の継体天皇は越前から近江にわたる範囲に勢力を張っていた王である。 彼が五十七歳の時、大和では応神王朝最後の大王武烈が薨去したが、子供がなかったために大王位の継承者がなかった。 そこで、重臣の大伴金村 (おおとものかなむら) は人々と議し、 仲哀天皇の末裔なる倭彦王を丹波から迎えて後継者とすることにして迎えの兵を送ったが、 倭彦王は討伐の軍と勘違いして逃げ失せてしまった。 そこで、金村は人々と再び議し、応神天皇の末裔の男大迹 (おおと) 王を越前から迎えることにして軍を送る。 男大迹もまた討伐軍かと疑ったが、直ちに河内馬飼首荒籠のもとへ使いを走らせて情報を連絡させ、 その軍が迎えの軍であることを確認し、金村の求めに応じて楠葉に至って、 ここで即位して継体天皇になったと述べている。

しかし、真実は、このような平和的なものではなかったと多くの研究者は考えている。 大和に覇権を確立していた応神王朝も、中興の大王雄略の没後は混乱と紛争が相次ぎ、 地方には群雄が割拠して末期的状況であった。 各地の豪族たちは風を望んで中原 (ちゅうげん) に進出して大王位を簒奪 (さんだつ) せんものと野望を膨らませた。 丹波の倭彦もその一人であり、越前近江の男大迹もその一人であった。 また、筑紫の王なる磐井もその一人であった。 最初に大和への進出を図った倭彦王は激戦の末に大伴金村の軍に敗れたが、 男大迹は二十年にもわたる長い長い戦いの後に大和に入り、遂に前王朝を滅ぼして、新たな王朝を開いた、 と云うのが真実に近いと考えられている。

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投稿者 naoto : 2008年11月06日