2008年11月4日
2008年11月04日
渡来人の日本に入り込む戦略とは
神社を通じて、渡来人と日本人との関係はどんな構造だったのか?を調べてみました。 😀
手掛りは日本の神社(≒天皇)は韓半島に由来!?からです。
その中に記載されている高麗神社から調べてみました。
「高麗(こま)神社と渡来人」から抜粋します。
以下抜粋
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ラグビ-ボ-ルの形をした埼玉県の重心から南(下)へ進むと、日高市があります。この地にある高麗神社には、高句麗系の渡来人・若光(じゃっこう)がまつられています。写真は、高麗神社本殿入口の門の扁額ですが、「高」と「麗」の文字の間に、小さく「句」の文字が入っていることがわかります。明治末期に、当時の韓国政府閣僚・趙重應が奉納したもので、10世紀に成立した高麗王朝と区別するために「句」の文字を入れたそうです。
さて、その若光とはどんな人物だったのでしょうか。彼は、高句麗の王族の出身と伝えられ、高句麗滅亡の2年前の666年に来日したと言われています。相模国大磯の郡長などを歴任した後、716年に武蔵国に新たに高麗郡が設置されるとともに、郡の大領(長官)として赴任してきます。『続日本紀』には、高麗郡設置に際し、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の7カ国に居住していた高句麗人あわせて1779人を移住させたとあります。この間、朝廷から従五位下という位階や「王(こきし、こにきし)」という姓(かばね。身分をあらわす称号)を与えられていた高麗王(こまのこきし)・若光は、彼らを率いて新天地の開発にあたることとなったわけです。若光の死後、郡民が遺徳をしのんでその霊を高麗神社にまつりました。(中略)
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抜粋終わり
高句麗の王族の若光とはどんな人か?
2年後に新羅に滅亡される高句麗の王のようで、ひょっとすると亡命だったのかもしれません。そして、その血筋を残す為に高麗郡の設置に際して分散していた高句麗人を2000名近く集めたのではないでしょうか?特に興味を引いたのは、当時の2000人に近い人数の力とはいか程のものだったのか?であり、この多くの人数を受け入れるには既存の村には物資も財もないでしょう。そこをどのようにして入り込んみ高麗神社建立にまで至ったのか?を考えて見たいと思います。 😀
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投稿者 sakashun : 2008年11月04日 Tweet
2008年11月04日
縄文時代の食物
今日は縄文時代の食文化について、世界学問研究所の公式HPから引用したいと思います。
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投稿者 dai1028 : 2008年11月04日 Tweet