気候変動と人類の拡散 |
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2010年12月11日
4大文明の背後にある民族大移動~地図を更新しました!
こんばんは。 😀
さて、今回は民族の大移動というテーマで、1万年前から3500年前までのコーカサス地方からメソポタミア、イラン高原からインドを中心にまとめてみたいと思います。
前回の記事で民族の移動の主要因には気候変動にある事が明らかにされています。
それも一万年以降で大移動と言われるのは7600年前、5700年前、4200年前、3500年前の4回ほどあり、最初が温暖化、後者の3回は寒冷化に伴う移動です。
4万年前にアフリカからユーラシア大陸に広がった原人類の祖先は、狩猟、採集を生業としており、1万5千年前頃の弓矢の発明伝播以降、1万年前には農耕牧畜を開始すると定住を始め、一定の地域に長期間住み続ける事になります。
しかし、初期の農耕は少しの気候変動でも不作になり、寒冷化に伴い豊かな河川を求めて移動する事になります。寒冷化・乾燥化によって農耕ができる地域は限られていき、その中でも灌漑農耕という手法を発明したコーカサス地方の原白人が南下してメソポタミアでの大規模農耕に成功します。それがシュメール人の起源であり、その後のメソポタミア文明の創始者になっていきます。
社会で最初に習った世界4大文明、その背後には寒冷化に伴う民族移動の足跡があったのです。
4大文明ってなぜできたのだろう?って考えた人↓ポチッと押して進んでください。
移動の流れを押さえると共に、最近のるいネットで投稿された民族移動投稿を紹介していきます。
民族の移動の初期は農耕民の移動であると言えるでしょう。
一方、寒冷化しても移動せずにそのままその地に残った民は、生産様式を変化させて適応していきます。その結果が遊牧という生産様式です。既に塩害で黒海周辺では農耕が困難になり始めた6000年前に馬の家畜化と共に遊牧という生産様式が拡がっていきます。遊牧の起源については別途調査検討中ですが、この時期の遊牧民が数千年の後に農耕民を脅かす支配部族へ転化していきます。
『気候変動と遊牧民の起源・移動』
まずはこの投稿を元に整理していきます。
1万年前 コーカサス地方(黒海)周辺で農耕・牧畜が始まります。
7600年前 温暖化で黒海に海水が入り込み黒海周辺の農耕民(原白人)が農地を求めて南下、メソポタミア地方に入ります。
『黒海の氾濫による農耕民の移動』
すでにメソポタミア地方では黒人が定住しており、農耕もすでに始まっていたと思われます。そこに灌漑技術をもったコーカサス地方からの白人が融和混血し、一大農業地域が形成されます。(黒人+原白人=シュメール人の形成)
6000年前 黒海周辺に残っていた原白人がイラン高原に移動して遊牧民として適応します。
5700年前 寒冷化により原白人がイラン高原やコーカサス地方からアラビア半島に移動。一部はそのままエジプトまで移動して農耕を始めます。移動した民は既に遊牧を生業にしていた民族であり、移動した地域の牧草が砂漠化で痩せてくると食料を求めてメソポタミア地方を襲う襲撃民となります。
エジプトに移動した民がハム族、アラビア半島に定着した民がセム族となります。5000年前のセム族初の襲撃が戦争の始まりであり、四方から迫られたシュメール人は城砦を作って抗戦、防衛します。
『戦争の起源 1 シュメール ウバイド終末期における防御の必要性』
つまり文明の始まりとは戦争の始まりであり、巨大な建造物は防衛の為の要塞として最初は構築されているのです。
★メソポタミアのジグラッド
4200年前 世界的な寒冷化に伴い中央アジアで民族移動が起きます。
『世界規模の気候変動が4200年前に起きている。』
それまでインドの北部草原地帯で遊牧生活をしていたチベット族がコーカサスから流れてきた白人遊牧民(印欧語族)に押し出され東へ移動。その後チベット族の羌族(チャン)が中国の夏、殷の王朝を建てる事になります。
『チベット系遊牧部族 羌族について』
『殷の支配氏族は遊牧部族だった その1』
中東地域では戦乱が激しくなり、この4200年前にはギリシャのクレタ島に印欧語族が移住し、クレタ文明(4000年前~)が始まっています。
『エーゲ海文明とクレタ文明』
またメソポタミアにはシュメール人の都市国家がついにセム族のアムール人に支配され、アッカド王朝が建国されます(4350年前~3750年前)
印欧語族の動きが激しくなったのはさらに700年後の3500年前からの寒冷化、乾燥化です。印欧語族の移動はヨーロッパ系とインドイラン系の2系統に別れます。一旦、3800年前の温暖期にイラン高原に移動した印欧語族(アーリア人)は2系統に別れ、一方はイラン高原に残り、非アーリアのエラム人と混血、その後の大帝国、ペルシャ帝国を作ります。
一方ヒンズークーシュ山脈を越えてインドに入ったアーリア人はインダス川上流のバンジャブ地方に入り、既に高い文明を築いていたドラヴィダ人を支配、その後インダス川からガンジス川に移動しながら2500年前には北インドの都市国家を建設していく事になります。
『印欧語族=アーリア人の起源と移動』
『インドーイラン人に別れたアーリア人の足跡』
これらアーリア人によって次々と中東―インドの国家が巨大化し、戦乱が激しくなっていきますが、彼らが侵入する前にメソポタミア、イラン、インドで初期文明を形成していたのが、シュメール人、エラム人、ドラヴィダ人です。彼らはアーリア人と混血しながらその基盤を失っていきますが、唯一ドラヴィダ人だけはインド南部で現在まで非アーリアの国家を継続させています。
ドラヴィダ人の起源はシュメール人ともエラム人とも言われ、4600年前インドに入りインダス文明を興しています。しかし、800年継続しましたがインダス文明はおそらくは温暖化の影響で起きた洪水などの自然現象で河川の経路が変わり、消滅。ドラヴィダ人は南へ移住することになります。
『ドラヴィダ人はシュメール人から派生しているのではないか?』
『1. インダス文明はいかにして成立したか』
最後にこれらをまとめた移動地図(私の手書き)を付けておきます。参考にご覧下さい。
①10000年前~農耕牧畜の始まり
②7600年前の温暖化~黒海に海水が入る
③5700年前の寒冷化による民族の移動~原白人の移動
④4200年前の寒冷化、3500年前の寒冷化による印欧語族の移動
これらを見ていくと寒冷化の移動に伴って大きく2つの流れが見て取れます。
一つは先発の原白人の移動(シュメール(⇒ドラビダ、エラム)、セム、ハム族)もう一つは後発の印欧語族です。
先発の原白人は現地民と融合すると農耕中心の都市国家を形成し、最初の文明を築き上げます。
後発の白人(アーリア人)は彼らの作った農耕文明を騎馬民族特有の鉄器文化で支配し、この地域を戦争の玉突き状態に変えて行きます。一方でクレタ文明に端を発した地中海文明は戦乱は起きなかったものの、圧倒的な武力で現地民を支配し驚くべき事に3000年前に既に一人で10人の奴隷を持つ、人を金で買う商業奴隷という階層、それを支配する個人=市民という概念を作り出しました。
これがその後の西洋の歴史の始まりであり、中東やインドとは異なる歩みを始めたのです。
投稿者 tano : 2010年12月11日 TweetList
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コメント
投稿者 tano : 2011年4月13日 23:48
tanoさんコメントありがとうございます。
>私権社会に転換する中でその猛威を振るったバイキングや地中海の海賊も元は遠洋航海の民だったのでしょう。そういう意味では日本に到達した弥生時代の海洋民の私権性も見ておく必要がありそうです。tanoさんコメントありがとうございます。
>私権社会に転換する中でその猛威を振るったバイキングや地中海の海賊も元は遠洋航海の民だったのでしょう。そういう意味では日本に到達した弥生時代の海洋民の私権性も見ておく必要がありそうです。<
言われてみれば現在のアメリカにつながるアングロサクソンには北方の海洋民の血が入っていますね。
弥生海洋民については、イメージレベルですが、次から次へと新しい土地を目指したというのではないように感じられ、ポリネシアや上記海賊の例とは少し違うのではという気がしています。
投稿者 fwz2 : 2011年4月19日 21:59
>ユーラシアの遊牧もポリネシアの遠洋航海も、それ自体は生存域を広げるための画期的な発明だっただろうが、集団の共認重心がバランスを失い、集団を根本的に変質させてしまう、人類として無理のある適応様式だったのではないだろうか。
遠洋航海と遊牧を父系転換のきっかけとする視点はなるほどです。またどちらも移動民で、そこから交易部族へと転じていった点も私益性を高める事に繋がったのだと思います。
私権社会に転換する中でその猛威を振るったバイキングや地中海の海賊も元は遠洋航海の民だったのでしょう。そういう意味では日本に到達した弥生時代の海洋民の私権性も見ておく必要がありそうです。