縄文土器体系化の祖、山内先生のお話 |
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2007年01月20日
中国の夏王朝はあったのか?
中国の夏王朝があったのかがまだ確定されていません。遺跡が見つかっていないという理由です。
人民中国特集記事「姿現した中国最古の王朝の都」
で中国河南省偃師の二里頭村の遺跡が夏王朝の遺跡ではないかと、特集記事を載せています。
放射性炭素の崩壊を利用した年代測定法が次第に精度を増し、二里頭遺跡の年代は紀元前1900年ごろから紀元前1500年ごろであることが分かってきた。二里頭遺跡が商によって滅ぼされた夏王朝である可能性が非常に大きくなった。
1990年までに行われた合計41回の発掘の結果、二カ所の宮殿址が全面的に姿を現した。このほか、廟建築址二カ所、中小の住居址五十余、青銅器の工房址、大量の青銅器、トルコ石の象嵌を施した青銅製の牌飾などが出土した。これによって夏王朝が二里頭に存在したことは、もはや疑う余地がなくなったのである。
夏王朝の特徴のひとつに世襲制のはじまりがあります。
『史記』などによると、夏王朝は、禹によって建てられた。その前の帝王である尭は舜に、舜は禹に位を禅譲した。禅譲とは、天子がその位を世襲せずに、有徳者に譲ることをいう。
禹は東方に巡狩して会稽で崩じたが、10年間、政治を任せていた「益」に位を授けた。しかし「益」は三年間の喪があけると位を禹の子の「啓」に譲った。諸侯は「益」を去り、「啓」のもとに集まり、「啓」は天子の位に就いた。天子の位の禅譲は、このときから世襲に変わる。「啓」は初代の世襲制の皇帝である。
中国の古代地理書である『水経注』には、夏の帝王「啓」が「地望」というところに住んだことが記載されています。専門家は新砦遺跡がこの「地望」に完全に符合すると判断しているそうです。
ozawa
投稿者 norio : 2007年01月20日 TweetList
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