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2011年07月01日

中国の民衆史~農業生産と集団~

こんにちわちわわです。
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カッピカピさんの中国の民衆史~大づかみに中国ってなに?~
に引き続き、中国農民の農業生産と集団について考察します。
中国農民は何故流民化するのか?その謎に迫ってみたいと思います!
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【殷、周の農業は邑という血縁集団の共同体経営】
黄土が肥沃であるという認識は誤りである。
黄土土壌には毛細管構造がある。土中の毛細管をつたって地中の地下水が地表面にくみあげられるのだが、地表に達した水分は乾燥した華北では簡単に蒸発してしまう。この時、地中の造岩鉱物が水に溶け出し、水といっしょになって地表面に移動する。水溶液の中で早く移動するのは塩素、次にカリウム、マグネシウム、ナトリウムと移動していくとされている。水が蒸発したあとこれらが地表面に残留し、いわゆる塩害が発生し、植物が育たなくなる。
事実他の文明は塩害が進行し、砂漠化を引き起こして衰退してしまった。逆に中国は、早くから耕起農法を行っていたために、文明を継続することができたのである。
耕起農法とは、土壌の耕起作業を念入りに行い、毛細管を破壊し、地下水を地表面まで到達させない仕組みである。
殷、周の時代、まだ、石製農具と木製農具しか使われておらず、木製農具で土壌耕起作業を行うには大規模な労働力の投入が必要であった。
家族耕作ではとてもこの作業は追いつかなかったであろう。このために中国農業は共同作業をおこなわなければならなかったのである。
周代の文献では耕地は「田」と呼ばれ、宋田、曹田、衛田などと呼ばれるように邑の名前を冠とした表現は見つかるが、個人の名前を冠した表現は見られない。このことにより、耕地は共同体で所有し、共同経営していたと考えられる。
【周代末期に共同体は崩壊し、家族経営となる】
春秋時代に施肥技術と鉄製農機具が登場するまで、殷の時代も周の時代も農業生産の方法自体は何も変わらない。しかし、周の末期には共同体から家族経営に集団の様式が変化する。なぜか?
殷の占いによる統合から、周の時代になると、秩序を重んじるようになり、封建制が敷かれ、土地台帳と戸籍台帳が整備された。当初は形だけであったであろうが、邑の長が共同体の代表といて徴税していたものが、各邑ごとに官吏が置かれ、中央からの直接支配が始まるにつれ、邑単位から家族単位で徴税が行われるようになり、土地の私有意識が次第に定着していったのではないだろうか。
周と同属の諸侯を地図上に印してみると、多くが河川沿いか又は太行山脈の東麓沿いに沿って並んでいる。このことは、これらの諸侯は交通路上に位置していたことを意味する。周が勢力を外に伸ばしていく際、交通路上に沿って外に進出していたのだと考えられる。
そして恐らくその際に領国の加増、加封が行われたのであろう。
しかし、そのうち周辺異民族の抵抗が激しくなり、ほとんど拡大できなくなってしまう。
土地が無いのである
このため、新しく土地を与える場合、周王室は自らの土地を細分化して与えるようになった。これが周王室の弱体化を招き、諸侯の自立、独立の動きにつながってゆく。
農村社会も分解する。本来邑に住む農民と邑の農地が一体化していたのが従来の農村社会であったが、為政者の一方的都合でその中の土地を細分化してしまったのである。同じ邑の耕作地で同じ邑の農民が耕作していても支配者が異なるという現象が発生した。その結果従来の氏族共同体で行ってきた共同耕作は崩れ、邑に依存していた共同体は崩れ始めた。周王室の政策のためばかりでなく、貴族間でも土地の切り取り売買することが行われていたらしい。
共同体分裂の動きは為政者側の力ばかりでなく、共同体内部にもその動きが出始めた。邑族長の権力が強くなり、族長による中間搾取が激しくなって、たまりかねた農民が逃亡するという事件が起き始めた。
また新しい封地をもらえなくなった封建領主が他領の農民の呼び込みや勧誘を行っていた。農民は少しでも条件のよい耕地を求めて移動し始めたのである。
この逃亡は家族単位で行われていた可能性が高く、共同体内部でも家族単位で耕作していた可能性が高い。
土地の拡大が止まり、農地が細分化されてゆくと、農民の生活も困窮してくる。そこで農民救済策として、土地の細分化を防ぐために、土地の長子相続制がとられるようになった。その結果、家長に権力が集中し、分家が行われなくなり、長子以外の子供達を労働力に加えることで、まとまった労働力が確保でき、邑の共同作業にたよらなくてもよくなってきたのであろう。
【中国農民は流民化し殺戮する】
古代において、まず発達したのが移動式焼畑農法である。土地の養分を吸い尽くしたら他の土地へ移動するというやり方である。都合の悪い土地は捨てればよいのである。
春秋時代には施肥技術が登場してくる。施肥により地力の回復が図れるので定住率は高くなる。しかし、鉄器の登場により森林の農地開発が活発になり、後漢のころになると森林は消滅する。黄河には土砂が直接流れ込むようになり、このころから河が黄色くなり、黄河と呼ばれるようになったという。森林開発による農地の拡大はすなわち農民の移住を意味する。
連作障害が全く無い日本の水田稲作農法と違って、黄河流域の乾燥地の畑作農法は、そもそも焼畑による移動式農法であった。土地に定着せず、少しでも条件のよい土地へ移動する流民体質を持つ中国農民は、周代の末期、邑という共同体が崩れ始めると、雪崩を打ったように移動が始まるようになった。
中国において地震より雷よりも恐ろしいのはバッタである。
定期的にトノサマバッタが異常繁殖し、畑の収穫物をことごとく食べつくしてしまう。
農民は食糧を求めて流民化し、備蓄庫を襲い、政権不安定期には人口が半減するほど大規模な一揆に発展し、帝国をも転覆させるという歴史を繰り返すのである。

投稿者 tiwawa : 2011年07月01日 List  

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