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2009年08月14日

中国における封建制と宗法(殷・周代)

『闇の第三勢力:中国~比較年表』『中国文明の追求~これまでの成果』にもあるように、中国史に対する追求が始まっているようです。

この流れに少し乗って、前回の『科挙制度に儒教が導入されたのはなぜ?』)より、孔子が顕彰したとされる「周代の封建制と宗族制」とは、どのようなものだったのか。周及びその前の殷について調べてみたいと思います。

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【殷代の封建制】
黄河中・下流域に、土地を共有し、共同で農耕していた『邑(ゆう)』という集落が多く出現します。
そして、邑と邑が連合して国家(邑制国家)を形成し、あおの邑制国家の連合体の長が出現します。これが、今日確認されている最古の王朝・殷です。
なお、殷・周時代の集落はすべて邑と呼ばれ、土地と人民が附属していました。

殷は祭祀政治(参考:『祭祀政治~古代中国「殷」王朝の場合』)で有名ですが、周代で確実視されている封建制についても、殷代の後半には貴族や地方勢力との間に政治的統属関係を形成したことが指摘されています。

また、王位は初めは兄弟相続であったが、末期には父子相続に変わったことが分かっています。

【周代の封建制】
周代の諸侯には同姓諸侯と異姓諸侯がいましたが、王室と同姓諸侯とは本家と分家の関係にあり、異姓諸侯もこれに準ずるものと考えられており、これらの間の団結は常に固められていたようです。
また、諸侯の国内でも諸侯と家臣とは、本家と分家の間柄で構成されるのが基本で、家臣には国内の宋邑(領土と人民)が与えられていたようです。

このような体制が可能あったのは、中国では宗族が重視されていたことが考えられます。
宗族とは、父系の同族集団、つまり同じ祖先から分かれてきた同じ姓の家で共通の祖先の祭祀を行い団結する、そして同姓不婚(同じ姓のもの同士は結婚しない)という原則があったようです。そして、宗族間では本家が優越し、分家は本家を中心に団結しなければならないという宗法(そうほう)というきまりがありました。

このように周代の封建制は、宗族(宗法)に基づいた血縁関係を基本としており、周が殷を平定して東方に勢力を拡大するにつれて、その血縁関係を政治関係にまで拡大したのが封建の制度であったようです。

そして、宗族(血族関係)であったが故に、王室(本家)が諸侯(分家)に封地を与え、それぞれの地方を統治させる分権的政治体制をとっていたようです。

【宗族・宗法の成立時期】
宗法は周封建制度論の根底をなすものであるが、その原則は周王室の王位継承にともなう政治組織から生まれたものと考えられています。

宗法は“大宗”と“小宗”の二つの宗族集団規定から成っており、大宗とは諸侯の公子(別子)を祖として、嫡長子孫相続によって無限に続いてゆく家柄です。これに対し、小宗とは大宗の家から分枝した大宗の兄弟の家を指し、大宗の弟たちが祖となってこれもまた嫡長子孫相続に従って形成される家であったようです。

では、その発生時期はいつだったのか?
前段で述べましたが

王位は初めは兄弟相続であったが、末期には父子相続に変わったことが分かっています。

この兄弟相続から父子相続(本家と分家)への転換が、宗族制に転換した時期ではないかと思われます。

なぜ、父子相続になったのか?については明確に記載されいる資料が見当たりませんが、一つの仮説を考えると、兄弟相続では問題が発生したと見るべきはないでしょうか?

つまり、兄弟間でも私権争いをするようになったと思われます。
この私権争いを抑止するものとして「本家」と「分家」という秩序化=宗法が設けられ、父子相続への転換が図られたように思います。

補足~・周と欧州の封建制の違い・~
主君と家臣の間にあり、過信は主君に忠誠を誓い、主君は家臣を保護するという関係で、個人と個人の間での契約。
一方、周の場合には、本家と分家の関係で繋がれていおり、宗法が重要視されています。
なお、臣下は君主に対して貢納や軍役、土木事業の義務を負っていました。

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『中国まめ知識』からお借りしました。




参考サイト
王朝史と系図前史
封建制(中国)

投稿者 yoriya : 2009年08月14日 List  

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