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2009年10月07日

官僚制の起源『氏族連合から官僚制へ』~中国史1

「官僚制の歴史~官僚制と試験制の弊害とその突破口を探る」によって新テーマの設定がなされました。
今回は、その中のひとつ

科挙制度に先立って実施された官吏登用制度には郷挙里選、九品官人法といったものがある。これらの官吏登用制度を中国は何故、必要としたのか?
同上より



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DAIMAJIN-BOXより借用

について、追求してみたいと思います。
第1回目としては、その官吏登用試験の前提を成す『官僚制の起源』について
商代から集権的官僚制国家である秦代までを調べました。

なお、商代からとしたのは、「史記」によると夏王朝が存在し、その権力(王権)は世襲制であったことが述べられていますが、その夏王朝の実在自体が疑われていること、また当時の政治体制が不明瞭なことからです。

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商代氏族連合としての職能分化=官吏の原型
商王朝はほぼ王族と氏族で構成されており、王族は商の中心的な集団で、王とその王子が分家した集団で構成されました。
王子は「子」といい、集団では「多子」と呼ばれました。王位は兄弟継続が主であり、王の兄弟、王子の兄弟は非常に強い影響力をもっていました。


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支配体制は祭祀によるものでした。新たに商王朝の支配に帰した聖地などに王朝は祭りの使者を出し、その祭祀権を掌握することが、その地を支配することとなりました。

中央機構は未分化で、王室に強大な権力が集中しており、その王室の管理のもと氏族が王室に遣わされて政治や祭祀に携っていました。

喪礼を司る職。それぞれの氏族に亜と呼ばれる聖職者がいた。多くの氏族から亜職の者が商都に派遣されて、王の修祓などの儀礼に従った。
同上
眉蠱の術を行う者で、呪的な方法をもって異民族を祓う儀礼を行った。鬼方の侵寇のときによく「術」のような呪詛を加えてくるので、これを防ぐのに眉人を用いた。ときには3000人の眉が従軍したこともあった。
王や師般と並んで、有力な軍の統率者。
百工、工祝などの工で、造営などを行う職。
同上

上記の名称は職能的に編成された集団でした。それらは特定の氏族ではなく、多数の氏族から都に送られてきたものです。

従って、商代においては、中央機構は未分化と云うものの、職能分化=官吏の原型が形成されています。但し、官僚制までには至っておらず、あくまでも氏族内連合であったようです。

なお、商の勢力範囲は広範囲にわたりましたが、商王朝は宗主権を行使しえたに過ぎず、直接的な支配が諸侯の内部まで及ぶものではなく、軍力がその地に常備的に配置されてはいませんでした。
そのため、王朝と諸族との関係はきわめて不安定なものであり、勢力関係や利害関係によって容易に叛服が繰り返されます。その商王朝の諸族で有力なものの一つが周です。

西周代神聖支配から政治支配に伴う封建制・官僚制
殷周革命により、王と氏族の服従関係はいっそう明確となり、血縁関係を政治的な支配まで拡大したのが封建の制度です。

官制は国家の統治機構、行政組織の発達に伴って次第に体系化していきます。周初は国の大事は、祀と戎すなわち祭祀と軍事にあり、周公・召公のような聖職者が最高の権威をもつ官制であったようです。

しかし時代が下るにつれ、権威の高い聖職者は現れなくなりました。これは国家の性格が、古代的な神聖形態から、次第に政治的支配傾向を強めてきたことを意味します。

そして、社会の基礎構造が、氏族を基本としたものであったため、官職の多くは世襲でした。そのため王室と氏族の関係は、古代の祭祀関係だけでなく、その職事を通じて固定的に結合するように変化していきました。また氏族の族長の地位が世襲されるときも同様に、王室は新族長を任命する形をとったのです。

すべての世襲・譜代による君臣関係が規定され、貴族社会の形成が見られるようになります。そして、このような譜代関係によって、王室への忠誠という観念が生まれてきたのです。


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諸侯は、自身の属する氏族によって支配者階級を形成していました。さらに諸侯は、氏族を分けることによって(分族)地方の邑を支配しました。つまり諸侯は周の天子に封じられた地や人民を直接支配したのではなく、自身の邑(国)は自身の氏族とともに支配し、地方の邑は分族に統治させていました。諸侯は氏族の代表者でしかなり得ず、各地を統治できるほどの権力はなかったのです。




氏族連合による祭祀関係は、商・西周を通じて脈々と受け継がれる氏族制度を下敷きにしつつも、西周の安定期になると、王室と氏族の関係は祭祀関係だけでなく、職事を通じた政治的な関係が重要視されるようになります。

つまり、職事を通じた世襲制による君臣関係、すなわち、官僚制による封建体制が確立する時期であったようです。

(つづく)

by yoriya



参考サイト
 ・ 「中国的こころ」 「商王朝の制度」
    「西周史」
    「春秋戦国史-概要-」
    「春秋戦国時代の制度」
    「県と郡」
    「秦の身分制」

 ・ 古代中国:神聖政治から王による政治支配へ

投稿者 yoriya : 2009年10月07日 List  

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コメント

現在、再び素人が主体的に情報を探索できるツールが登場し、かつ有益となる情報の発信がだれでも可能になったというのは非常に画期的な出来事ですね。
初めはネット世界は変人しか集まらない世界であり、情報といえばTVや新聞から、というそれまでの一般常識に対しては異質な世界だったかもしれないが、それが人々の潜在思念によって濾過された「可能性収束」の結果として、現在のネットの位置づけは新たな共認形成のツールとして変革してきていると思います。

投稿者 戌年 : 2009年12月7日 18:48

「戌年」さんコメント有難うございます。
>現在、再び素人が主体的に情報を探索できるツールが登場し、かつ有益となる情報の発信がだれでも可能になったというのは非常に画期的な出来事ですね。
確かに、全ての情報が、ネット上に乗ってくるというのは、画期的な事ですね。
支配者の力の源泉は、情報の独占であったと言っても良いと思います。
そして情報公開の潮流は世界的規模で進行しており、国家機密さえ時間が経てば公開され、一般大衆(素人)の評価を受けるようになってきています。
情報の質に関しても多くの人が参加すると必然的に上昇する様ですね。
そう考えると、新たな時代が直そこまで来ている予感がします。

投稿者 ryou : 2009年12月7日 19:35

メールの文化やブログなどが広がるにつれ、ここ10年くらいで、ネット界もずいぶん変わったと思います。
情報を探そうと思えば、まずネット検索し、そこそこ信憑性のある情報を探り当てることが出来るようになりましたし、ごく限られたマニアックなサイトはなんとなく見分けられます。
信憑性が怪しければ、複数の情報ソースを調べることも出来ます。
まだまだゴミ情報もありますが、今は、まっとうな情報ソースが急速に増え始めている時代だと思います。
素人が自ら発信し反応充足を得るブログという、かつてはほとんどなかった行動様式の可能性が、ネット界を変えてきたのは確かではないかと思います。

投稿者 hiroshi : 2009年12月8日 12:01

hiroiさん
>素人が自ら発信し反応充足を得るブログという、かつてはほとんどなかった行動様式の可能性が、ネット界を変えてきたのは確かではないかと思います。
情報と言うと、事実の一方通行報道の様に思いますが、人が求めている情報とは、双方向でお互いに反応充足する為の物であると思います。
マスコミの発達で、情報は一方通行になっていましたが、本来情報は井戸端会議のようなお互いの信頼関係を築くツールであったと思いますね。
ネットの発達で、やっと、本来の情報が本来の姿を持ち始めた気がしますね。

投稿者 ryou : 2009年12月9日 10:45

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