中国の先史時代(500万年前~B.C.12000) |
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2009年09月08日
“中華思想”はどのように形成された?①
“儒教”や“道教”がどのようにして生まれたのか?
を『縄文への道』から紹介させていただきました。
今回も引き続き『縄文への道』から“中華思想”がどのような背景によって形成されてきたのか?を紹介していきたいと思いますが・・・、ただしその前に中華文明がどのように形成されてきたか?をもう少し見てみることにしましょう。
中華文明の形成
チャイナにおいて、侵入者は常に北方の遊牧民であった。この国のこうしたワンパターンの繰り返しの中で、いつしか牢固として抜きがたい「中華思想」なるものが形成されていくことになった。定着と過大人口という、ヨーロパとまったく相反する現象は、温暖な気候風土と広大な土地に根付いた農耕文化が基底にあるためだが、この事実が侵入した遊牧の民の異文化を解体し、同化し無力化していくことになった。
なにしろ痩せて寒い北の僻地からこの地を見れば、いかにも豊かで有り余る文化を持っており、その魅力が、剽悍(ひょうかん)な騎馬の民を骨抜きにするのにさして時を要しなかった。あるいは伝え聞くこの地の豊かさと高度な文明が、常に絶ちがたいあこがれとなって北方の民を引きつけずにはおかなかったというべきかもしれない。
梅棹忠夫の「遷移という視点」で見た場合も、森を破壊しながら遷移してきた西欧と違って、ここユーラシアの東においては、なにも日本に遷移することでチャイナの文明が枯渇したわけではない。日本に移入されたチャイナ文明が、(自分たちにとって)良きものだけを選択して受け入れるという、この国特有の文化と遭遇することによって、まったく新しい文明として勝手に花開いたと見るのが妥当である。
したがってチャイナ文明の衰退は、けっして文明の遷移によるものではなく、その特異な「中華思想」が、周辺からの新しい良きものの導入を、かたくなに拒否し続けてきたからに他ならない。
グローバル且つ歴史的な視座でみると、アジアの持つ内陸的で内向きで遊牧よりもはるかに農耕に依存している姿勢を否定することは出来ない。もちろんいずれの国でも海岸線を持つ以上海洋的側面は存在する。しかしながら国家としてみた場合、(特にチャイナにおいて)西洋における外向的遊牧的あるいは海洋国家的国家像のかけらも存在しなかった。なにしろ世界に冠たる中華文明が、移動をする必要などあり得るはずがなかった。
村上泰亮『文明の多系史観』は、チャイナ(それにインド)の文明が移動しなかった有り様について、「中国では、三百年を平均の周期として王朝が交代し、インドにおいても、王朝の存続は短く、興亡は速やかであり、クシャーナ王朝、ムガール王朝、大英帝国はいずれも異民族王朝というふうに、近代国民国家以降の常識から見れば、甚だしく不安定もかかわらず、文明成立以来二千数百年の歴史を通じて、ほぼ一定の社会組織が維持され、外部からの侵入勢力もいつしか吸収されて、王朝の交代という表層の波動の下で、文明の原理は不動に保たれたてきた」として、
社会システムの上層に、抽象化された文明の原理に基づく広域的なコントロールのシステム(儒教に基づく文人官僚制と、ヴェーダ聖典を根拠とするカースト制)があり、他方、社会システムの下層には、血縁的性格の強い自治的共同体(中国の宗教・家とインドの村落・大家族)があって、限られた自衛力しか持たなかった。 (中略) このように、抽象的な文明の原理を不動の骨格として保持しながら、具体的な生産活動は自治的小単位で実行されるという自由度の高い構造が、外からの衝撃を吸収し、侵入民族を文明の原理にけっきょく隷属させて、大文明としてのアイデンティティを保持させたと思われる。
と西欧の文明との違いを指摘している。これは西の文明が、移動を常とする遊牧文化に農耕文化が収斂されたのに反して、逆にチャイナ文明は、農耕文化が遊牧文化を吸収し消化してきたことを示している。
もっとも国家ではなく民族性として、長江以南からアジアの多島海を経由してインドに到る一帯の海の歴史を語るならば、その卓越した商業者としての力量を遺憾なく発揮してきた、華僑の持つインターナショナルな存在感を無視することは出来ない。しかしながらそれは、チャイナという国の動向や束縛から離れることで、存分に発揮されてきた江南の民の持つ、人種的特性としての「商」というカテゴリーにおいて論ずべきことである。
チャイナの地において、「南船北馬」という言葉に示されるように、江南という長江の下流域付近から南においては、古来よりジャンクが普及し、川や海洋を自由に行き来して広く交易に活動した事実がある。チャイナの場合それは、決して西洋に見られるような国是・国策としての交易とか植民地経営ではなく、個人的に商人として海外に進出し活躍してきたにすぎない。チャイナにおける政治的中枢性は常に馬で行き来出来る黄河の流域に限定されてきたのである。
投稿者 mrran : 2009年09月08日 TweetList
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コメント
投稿者 Hiroshi : 2009年11月5日 22:32
貴族社会と氏族社会~自我収束と共認収束の階層意識の違い~と題してちょっと考えてみました。
社会の階層意識とは、序列意識。社会の身分ヒエラルキー構造。西洋と東洋において、方や貴族階級のように強固に現在まで維持され、方や一億層中流階級という言葉に代表される、ほとんど序列・階層が意識されないという違いを生み出したのは?
序列を強固にしなければならない社会は、人々の意識が個々にばらばらで、共有できないが故の強制的な力が必要な状況が見て取れます。また、人々がお互いに認め合えないという現実がみて取れますが、それでは、集団や国家として秩序維持できないので、現実には、認め合うあえないゆえに頭の中だけのフィクション(架空)を作り出し、収束させることで、社会をまとめようとするしかないのです。これが、宗教や近代思想です。
人々が疑心暗鬼に陥った理由は、肥沃といえない西洋の土地柄での環境変化による食糧危機に端を発した、度重なる掠奪、殺戮、戦争、収奪、皆殺しです。この無秩序状態で、安定を求めた人々は、強い者(支配者)につくか(=序列への依存)、架空観念(キリスト教等)へと収束せざるを得ない状況を作り出しました。
西洋では、その秩序を維持すべく、序列に収束して、この階層意識(=貴族階級ヒエラルキー)を維持せざるを得ない状況をいままで維持してきたのではないか?と思います。
東洋では、このような歴史体験が乏しいので、ともに共有し認め合い、序列意識に頼らない集団間や社会関係を作り上げたといってもいいでしょう。それが、氏族共同体社会であると思われます。
同じ人間でありながら、圧力状況とその歴史により、まったく方向性の異なる意識状況が生み出されました。それは、ともに求め合い充足を求め秩序形成したか、自我から行き場のない充足を架空観念と序列に求め秩序形成したかの違いであるように思います。
投稿者 2310 : 2009年11月7日 21:29
こんばんは、
なぜヨーロッパ人の階層意識が強いのか?少し分かったような気がします。
>欧米人の思想の根底にある人間中心主義
>人間と動物を断絶する論理は、同様にキリスト教徒とそうでないもの、ヨーロッパ人とそうでないものなどを断絶し、ヨーロッパ社会の内部においてはユダヤ人に対する迫害であるとか、非常に根強い階層意識などを形成してきました。
つまり、人間中心主義(しかし根底は差別主義であり、自己中)を強く持っているから、さらにその底には警戒心?があるからということだと思います。
彼らが、世界の思想を動かしているのは不思議です。