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2007年07月15日

中国文明:殷の婚姻制~統合の根底には必ず婚姻制が深く関わっている

今晩は 相変わらず、を攻めるさーねです 😛
今日は、殷の婚姻制を通して、いかに婚姻制が社会統合に関わっているか?を伝えられたらと思います しかし、この当たりの資料はネットにはほとんどなく 🙁 、るいネット知られざる人類婚姻史と共同体社会を参考に考えてみたいと思います 😉 以下が、まず殷の婚姻制の説です

>殷王朝は十の宗族からなる主要な2つのグループにわかれており、交叉イトコ婚を繰り返しながら、父系のオジからオイへと交互に王権を継承したと推定している。(「中国の考古学」同成社より抜粋)

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殷王朝 第30代 帝辛(蔑称紂王(ちゅうおう)→こう言えばわかる人も多い )殷王朝 第30代 帝辛(蔑称:紂王(ちゅうおう)→こう言えばわかる人も多い?)~ただし、これマンガです
殷代を記した古典「封神演義」は実はマンガになってるんですね~ かなーり脚色されてますが… この紂王の事例は最後の方で引用したいと思います
みんなで追究しよう!!古代文明♪
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冒頭の説から、交叉イトコ婚とは?
るいネット「通い婚」→「母方交叉イトコ婚」→「父方交叉イトコ婚」への変遷よりポイントのみ抜粋します 😀

母方交叉イトコ婚の優れているのは、A集団はB集団から嫁をもらい、B集団はC集団から、C集団はD集団から嫁をもらう等、嫁取り先が移行していくので、ヤム芋等の贈り物も同様に移行し、特定の集団に財が偏ることがなく、財が循環することである。

父方交叉イトコ婚は、A集団の親世代がB集団から嫁をもらったら、子世代は逆にB集団に嫁を出すことになり、A集団とB集団で閉じた婚姻関係を結ぶことになる。
これは閉鎖性を強めることになり、通い婚や母方交叉イトコ婚の趣旨とは反している。特権から富を蓄えた集団が、財が流出しないように閉じた婚姻関係を作ろうとしたのだと思われる。
いったん父系イトコ交叉婚に移行すると、富を蓄えた集団に嫁を送り込むことが出来れば、子世代では逆にその集団から嫁を得ることができ、富の分け前を受けることになるが、これは政略結婚のはしりである。

冒頭の考古学上の説から考えると、殷は父方交叉イトコ婚の可能性が高いのではないでしょうか?王朝存続=富の集中を狙う婚姻制が採用されていたと考えられます 🙂
さらに、父方交叉イトコ婚について、インセスト・タブーとイトコ婚(2)より

>父方交叉イトコ婚では、与えた女性の代償がいつ戻ってくるかという不確実性は減少する代わりに、交換のやりとりはその都度2世代だけでサイクルは完結してしまい、長期的な社会的結合を生みません。したがって、この婚姻規則における社会的組織化の力はきわめて微弱です。

殷に代償は必要ありません。社会的結合は逆効果です。ところが、ポイントは政略結婚があり得るということ 😈
そこで、冒頭の紂王(ちゅうおう)のお話です 🙄
紂王
 第三十代君主。帝辛“紂”は儒家による蔑称。父の帝乙とともに祖祀を乱し、有蘇氏から献上された妲妃を盲愛して“長夜の宴”“酒池肉林”に代表されるような遊興に耽って政事を顧みず、“炮烙刑”“[萬+虫]盆刑”などの酷刑と苛斂誅求などの悪政を行なった。人心を失った紂王は姫周を盟主とする諸侯連合に滅ぼされ、後世儒家によって夏王朝の桀王と並称される典型的暴君と決めつけられ、桀紂といえば暴君の代名詞とされた。『史記』では、猛獣と格闘し、自身の非行を修飾して臣下の諫言を封じられる程の才能を持っていたとある。(東アジア史データ
殷王朝最後の王:紂王。そこに、献上(→政略結婚?)された妲妃(だっき)…その後、殷王朝は周に滅ぼされます…父方交叉イトコ婚によって独裁してきたが、政略結婚によってもろくも崩れ去った…このようなストーリーは考えられないでしょうか?
夏王朝や周王朝の約350年の歴史に対して、殷王朝は約600年存続したと言われます それには、この父方交叉イトコ婚という婚姻制によって、王朝の長期存続が可能になったのではないでしょうか 😀
※交叉婚については、知られざる人類婚姻史と共同体社会【図解】交叉婚って何?(1)【図解】交叉婚って何?(2) にもっとわかりやすく書いてあります。ぜひ、読んでみてください 😛
 

投稿者 sawatan : 2007年07月15日 List  

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