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2008年01月21日
中国文明:遊牧民族「古代羌族」の歴史①~略奪の始まりは羌族か?
さーねさんの前作では、人間扱いされなかった「羌」や「南」の“異民族”のことが紹介されましたね。
この「羌」とは一体何者なのか? 調べてみました。
>羌という文字は甲骨文のなかに頻出する。商(殷)王朝と戦って捕らえられた羌人は人身御供、つまり祭祀の生贄とされたのである。(「送魂路」さんより引用)
>古代羌族(きょうぞく)は、陜西省から寧夏回族自治区(ねいかかいぞくじちく)にいた遊牧民族で、白狼を崇拝し、自らを白狼の子孫一族としています。
>羌族はチベット系民族ですが、その呼称文字の「羊」から知られるように、西アジア地域の遊牧民族で、やがて、中国西部に広く勢力を伸ばしてきます。三皇五帝以前より、度々中原に進出し、葛藤と同化を繰り返します。やがて同化し、漢民族とし漢水の上流にいる羌族を南羌族、青海周辺に居る羌族を西羌族と呼ばれます。
南羌族は周王朝建国の功労者「太公望」の故国であり、後に漢民族の大姓となります。その時代になると、南羌族のトーテムは「羊」に変わっています。「白狼」崇拝は、西羌族だけとなり、彼ら一族は、時に胡人とも呼ばれるようになります。(「レアメモリー」さんより引用です)・・・漢水とは長江の支流のことで陝西省の南部を指します。
>チベット高原の東端、四川省西部の山岳地帯は、かつて幾つもの古代民族が移動と興亡を繰り返した地域である。数千年前、中国西北部の古代民族「羌」の一部は故地を追われ、新たな土地をもとめてここを南下したという。現在、この一帯に居住するチャン族やギャロン、白馬、ナムイなどのチベット族および雲南のプミ族は、この古代「羌」の末裔と目される人々である。(松岡正子氏の論文より引用です)
ここで中国の地図を載せておきます。
青海湖辺りに西羌族、天水辺りに南羌族がいたわけですね。
(古代で遊ぼさんよりお借りしました。)
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前回紹介した「西戎」にあたるのが羌族なのでしょう。犬をトーテムとしていたことから「犬戎」とも呼ばれていたようです。
さて、疑問が湧いてくるのが、
故地を追われた数千年前というのは何時のことなのでしょうか? また誰に追われたのでしょうか?
、、、さらに西や北にいた遊牧民族に追われたのでしょうか。中原(黄河下流と長江下流の間)の地へ進出したのが三皇五帝以前ということですから、夏王朝よりも前、BC3000年頃でしょうか。
>なぜ集落周辺に、大規模な環濠を設置するのかの理由の一つが、羌族や北戎の存在でした。後代、中国中原を支配する王朝総てが、その勢力の侵攻に悩ませされ、政権の維持に危殆が生じます。 有史以前であっても、中国のみならず、ユーラシア大陸の文明地帯において、周辺遊牧民族の存在は、外敵として、かなりの脅威でした。
生産力で、定住民に劣る遊牧民が、農村集落を襲撃して略奪し、中には征服して定住化するものもいました。 遊牧民の侵攻以外にも、周辺集落相互の水争いも含む農業好適地を巡る紛糾と、富や人間の略奪を目的とした争闘もありました。(レアメモリーさん)
環濠集落の歴史は古く、黄河、長江ともにBC8000年くらいから見られますが、遊牧民による略奪がそこまで遡るのか、ここはも少し検証が必要ですね。この古代羌族が故地を追われ、内部に進出していったのが中国における略奪の始まりかもしれません。
ともあれ、この羌族は東進、南進しながら各地に定住しては文化を築いています。そして、BC3000年頃には黄河下流の龍山文化や、長江下流の良渚文化との交流があったようなのです。このあたりは、、、長くなるのでまた次回に紹介いたします。
(by eto)
古代羌族を祖先とする少数民族は、今も四川省や雲南省の奥地に住んでいるのです。↓↓
(送魂路さんよりお借りしました)
投稿者 nishipa : 2008年01月21日 TweetList
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コメント
投稿者 太郎 : 2008年2月15日 09:46
なるほど!
と思った一方、??と思ったのは、
・江戸時代前期に人口が急増していること
・また寿命という側面で見るとまた違ってきそうだし、
生産様式(農業だと背が低くなる?)でも変わりそうだし
いろいろファクターありそうだなと思いました。
とか、いろいろ考えさせるデータですね。
投稿者 Hiroshi : 2008年2月16日 02:33
へ~
古墳時代より明治時代のほうが小さかったなんて以外ですね!
ちなみに身長の伸びはどんな栄養価が影響が大きいんでしょうか?例えばカルシウムとか・・・。その辺りの詳細な食料事情が知りたいですね。
投稿者 mrran : 2008年2月21日 22:24
身長が低くなっているのは、貧困では無くて、食べ物の種類が変化しただけですよ。おおざっぱに言うと、肉類を食べると身体は大きくなります。米は身長には影響しません。貧困とは全く別問題です。狭い国土の日本では、狩猟などで大量の肉を供給することは出来ません。しかし農業の発達により大人数の食料の供給が可能になり、組織が完成し、国家が形成されます。この基盤は農業生産によるものですから、国家はより効率の良い農業生産を求め、開発し、人々に提供します。
戦国期の黒田如水の手記によると、人々の主食は米と塩のみ、そこに如水が草を塩で漬けたものを配ると兵士は珍しがって食べたとあります。戦国期は魚なども特別な日に食べる贅沢な食料です。
室町末期に全国的な飢饉が起こり、各国の統治者(戦国大名)が経営改善、つまり農業改革を実行し、日本の食料事情は一気に改善されます。この時期に、農業に対する日本の国土はほぼ開発され尽くされ、総人口3000万人時代が明治まで続くことになります。この時期は日本が最も安定した統治を行った時期でもあります。1600年から1850年に起きた江戸、その他地域の犯罪件数は世界の同人口の都市と比べて10分の1以下です。飢饉についても縦に長い日本では、東北が飢饉であれば、九州地方が豊作で、またその逆も起こります。一時的な飢饉は起こりますが、慢性的なものはなく、幕府の政策は一環して無償で飢饉対策を行っています。文献に残る飢饉の資料はいわば現在でもおこる阪神大震災や津波被害などの「珍しい」事件を残したもので、日常的な資料ではありません。士農工商などの身分制度も明治になって江戸期の状況を分かりやすくするために政府が明治に入って新しく教科書に載せただけで江戸期の資料に士農工商などの身分制度の言葉は一つもありません。江戸期にあったのは身分制度ではなく、職業の区別です。職業に貴賎はありません。また、明治になって身分が低いとされた単純労働を生業とする人々が貧しくなったのも新政府が開始した下手な貿易によって商売が出来なくなった明治に入ってからです。
農業生産と人口増加の過程をたどると、むしろ貧困は改善されて来ています。
長々となりましたが、つまり、一般に小学校、中学校などの教科書などに載っている内容は、かなり編集者の都合のいいように書かれているので、それを鵜呑みにするのではなく、全ての情報を疑ってかかってくださいと言いたかっただけです。
といいつつ私が提供した情報も十分に疑ってくださいね。
投稿者 ちょっと反論 : 2008年2月28日 09:52
太郎さん、Hiroshiさん、mrranさん、ちょっと反論さん、コメントありがとうございます。
ちょっと反論さんの意見に敬意を表し、ちょっと反論させていただきます。核心部分だけですが。
身長の伸び(縮み)の根拠を肉食(とそれに伴う穀類の増減)に求めると、明治以降の身長の伸びが説明し難いのではないかと思われます。
平均身長は1900年(明治32年)から約100年にわたって右肩上がりですが、肉類の供給量は1900年代初頭から1900年半ばまで変化しておらず、かつ、1日当り10gにも満たない水準で推移しています。牛乳や乳製品も同様です。
また、肉食比率でいえば、カロリーベースでも蛋白質ベースでも縄文人は現代人よりも肉食比率が多くなっています。しかし、現代人よりも背が高いわけではありません。
ただmrranさんも指摘されている通り、時代ごとの栄養源については無関係ではありません。Hiroshiさんの指摘のように寿命や人口を加味するとどうなるかについても検証が必要です。
今回のデータを一元的に分析するのは好ましくありませんし、元データに偏りがないかどうかも検証する必要があります。
今回のデータを元に、新しい視点の議論が生まれればと思います。
投稿者 くまな : 2008年4月12日 01:52
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。
投稿者 石垣眞人 : 2008年7月30日 15:23
仏教のせいで肉食しなくなったら平均身長が縮んだんじゃないの?
現代の長寿研究だと古典的な和食よりも肉が多めな沖縄やハワイに移民した日系人の食生活が理想とされてるので、平均寿命も仏教のせいで縮んでたんだろうなぁ。
昔の小説とか漫画で「日本人離れしたスタイルの美女」みたいな表現があったけど、あれも仏教による肉食禁止のせいであって「仏教離れしたスタイル」と呼ぶのが正しかったのかも。
大仏つくったら公害で死人でまくったなんてのも有るし、ほんとうにヒドイ邪教だ。
投稿者 匿名 : 2012年4月15日 22:33
しんちょうが、私よりじょう文人のしんちょうが小さいなんてびっくりです。
投稿者 くろねこ : 2012年4月21日 09:35
私も体格については肉食をしなくなったからだと思います。
縄文時代はイノシシやシカ、鳥、ウサギなども日常的に食べていたのでしょうが、
「生類哀れみの令」により、表立っては食せなくなってしまいます。
しかし江戸時代は畜産業が今ほど発達していなかったことや、
人口が増えれば増えるほど食(肉)の確保も難しくなりますから、
町の維持を考えた場合、あながち政策方針としては間違ってなかったと思います。
投稿者 匿名 : 2013年9月20日 22:03
お邪魔します!
msn産経ニュース
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【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文へ(1)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071008/acd0710082057002-n1.htm
DNA・アイヌ・縄文 シリーズで 掲載されております。
結構 楽しめました。。。