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2008年06月07日

中国、母系→父系制への転換期③:強大な母系集団“三苗古国”vs父系集団“竜山文化”のせめぎあい

 中国古代は、強力な母系集団(特に長江文明の三苗)が残り、黄河流域の中原に依拠した父系集団の竜山(龍山)文化と対峙し、数百年に渡って緊張した関係にあった。紀元前3000年~2500年前ごろのことです。
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長江の中央部あたりに見える、屈家嶺文化のあたりが三苗と長江文明の中心部。石家河文化もこのあたり。
(図は、古代であそぼさんからお借りしました)

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 中国の母系集団は、古国と呼ばれる国家に近い巨大な防御システムを形成し、例えば石家河文化では、城壁の一辺の長さが1100~1200m、その外に巾数十mの環濠をめぐらせていた。その石家河城を中心として等級別のはっきりした集落システムを形成して、防御していた。
(以下の図版は、「文明への胎動」p199より)
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それに対して、黄河流域の竜山文化は、夏王朝につながる遊牧発の父系集団です。
>伝説と記録によれば、中原地域は強大な勢力である黄帝と炎帝の活躍した地域でした。炎黄集団は仰韶文化後期にかなり衰退し、竜山文化期に復興して、ついに中国史上最初の王朝である夏王朝を建立します。中原竜山文化は、その範囲が広く、中心部は伊絡河平原にありましたが、中心地域を取り巻いて求心状に分布する構造で、中国文明の形成と発生に巨大な影響を及ぼしました。
中国文明史図説1『文明への胎動』より
この父系集団の竜山文化は、夏王朝・殷につながる文明的な要素を既に備えていました。
竜山文化は、ついに長江流域の母系集団を征服します。
>中流域の屈家嶺文化(くつかれいぶんか、紀元前3000年 – 紀元前2500年)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年 – 紀元前2200年)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征服された結果と考えられ、黄帝による三苗の征服などの伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いに元があると考えられ、三苗はミャオ族の祖と言われる。※長江文明
このようにして、ついに強大を誇った母系集団も消滅するか、父系集団に服属するか、辺境に追いやられていった。だが中国には、母系集団の信仰の名残である道教や陰陽思想が、民間信仰という形で深く人々の間に信仰され続けている。(「道教文化の源流」参照)
さらに辺境に逃れた母系集団の一部は日本にもやってきて、農耕と弥生時代をもたらした。彼らが持ち込んだ信仰(道教の元)が、神道になったという説もある。
では、強力な古国を形成した三苗はどのようにして、国家に近い巨大集団を統合していたのだろうか?(その統合方法は、弥生の日本にももたらされたはずだ。)
そして、拮抗していた父系集団に負けていくことになる要因はなんだったのだろうか?
(by Hiroshi)

投稿者 ihiro : 2008年06月07日 List  

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