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2007年11月03日

中国:数々の歴史書の輩出は何を意味しているか?

歴史事実を発掘するという作業は大変だなと思う今日この頃 中国は、発掘調査と共に、やはり数々の歴史書から当時の社会背景をしっかりと押さえ、その上で読み解くという作業が一定必要だと思う 最近、中国の歴史書の代表格『史記』を読んでみようと思い、以下の著書を読み進めているところです :o
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『史記・貨殖列伝を読み解く 林田慎之助著 講談社』
中国は、歴史書の数でも有数の文明であると思うのですが、なぜ、そのような歴史書が数多く輩出されたのか?ここは実は不思議なところでもあります。それと共に、歴史書を読み解く上で、ここはしっかり押えておいた方がよい。その、手掛かりになりそうなところを今日は紹介しようと思います :o

発憤著書ということばがある。文字通り、憤りを発して書物を著すという意味のことばであるが、これを最初に使ったのは、司馬遷であった。司馬遷は、思想・文学を言語に表現した著作を創造する動機には、作者の側に発憤の心的状況が存在していたと考えるもので、中国の古典的作品を創造した著者たちのおかれた状況に照らしてみても、発憤著書の動機説を認めざるをえないと語っている。

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司馬遷のこの発憤著書の説は、その後に展開された中国の文学思想を考えるうえで、一つの重要な基軸となる思想的性格を帯びることになる。…(中略)…

「昔より富貴にして、その名を磨滅するものは、数限りなくありますが、しかし卓異非常の人物のみが、今なおその名をたたえられています。周の文王はゆう里に捕われて『周易』を演繹し、孔子は災厄に出遭って『春秋』を作りました。屈原は放逐されて『離騒』を書き、左丘は失明して『国語』を著しました。呂不イは蜀に流されたために『呂覧』が後世に伝わり、韓非子は秦に捕らえられて「説難」「孤憤」の二篇を著しました。詩三百篇の多くは、聖賢が発憤して作れるものであります。これらの人々はみな胸に憤懣の想いが結ばれてとけず、心通ずることがかなわぬために、過去の事柄を述べて、自分の考えを未来の人々に伝え知らしめようとしたのです。」かく司馬遷が発憤著書の説を語ったのは、『史記』の最後に加えた自序文、「太史公自序」においてである。

崇められる周王,著名な孔子など、その時代状況に振り回され、憤怒の想いで書き上げたという。確かに、この時代は原稿用紙もなく、竹簡のように刻むかしかない。書をまとめるにも大変な時代である。それには、やはりかなりの動機が必要。それが発憤であるという。
では、司馬遷が発憤するに至った状況を辿ってみよう。

司馬遷が予測もしない数奇な運命をたどるようになったのは、漢の武帝の天漢二年(前九九)、四十七歳のときである。父の司馬談の職責を、その死後に受けついで大史令となって八年の歳月が経っていた。父は死に臨んで、『史記』を完成させよと遺言を子の司馬遷に伝えていた。天漢二年に、『史記』はひそかに書きつがれていたが、未完成の状態にあった。そのとき、司馬遷は李陵事件に連坐して、武帝を誣告した罪を問われて、死刑の宣告を受けたのである。…(中略)…
このとき少しでも国庫を充たすために贖罪の制がおこなわれていたので、死罪を免れる道は、二つあった。一つは五十万銭を積んで死一等を減ぜられるようにすること、二つは宮刑を受け、男根を除去して、宦官となることであった。このとき司馬遷の家には、五十万銭を積んで朝廷に差し出す余裕はなかった。彼の友人縁者も重罪と知って、誰一人彼に金を貸しあたえる者はいなかった。司馬遷は進退窮った。…(中略)…
宮刑を受け、宦官に身を落として生きる道しか残されていなかった。
…(中略)…司馬遷が宮刑を受けてから三年がたったとき、年号が改められて太始元年(前九十六)となった。これを祝って、その年に大赦令が出された。…(中略)…李陵事件についていくつかの誤認があった。…(中略)…この機会に司馬遷を獄中から釈放し、中書令の職に任じた。中書令は正式には中書謁者令と呼ばれる官職で二千石の秩禄。太史令の六百石に比べると格段の出世であった。…(中略)…
いちど生きながら地獄につきおとし、また恩赦の機会にひきあげて中書令という官服を着飾らしてみたところで、所詮それは権力者、天下人の身勝手にすぎない。司馬遷、被害者の身からすれば、中書令の高官になっても、宦官という残酷な烙印はつきまとい、死ぬまでそれを消し去ることはできないのだ。

武帝からの絶対圧力。それによって、事実であろうがなかろうが歪められてしまう。司馬遷は、現実そのものを否定する意識に陥ったのではないだろうか?るいネットの以下の普遍認識がピッタリだろう
観念パラダイムの逆転2 現実否定の倒錯思考
事実、私権時代の全ての既成観念(古代宗教と近代思想)は、この異常な現実否定意識に基づいて作られている。その証拠に、これまで現実を否定する意識は、常に暗黙の内に正(義)として意識され、現実を否定する意識そのものを疑うような意識は、全く登場してこなかった。これは、現実否定→倒錯思考が、私権時代を貫く思考のパラダイムである事を示している。
ただ、一点、司馬遷の『史記』を評価するならば、

司馬遷の『史記』が、後世の正史と異なるのは、官製のものでなかったことである。誰かに頼まれて書いたのではなく、みずから書かねばならない、書く必要がある歴史書として完成させた私家版であった。

いずれにしろ、歴史書は、時の絶対的圧力=絶えざる戦争の圧力→現実を否定せざるをえない状況から生み出された書物。事実として、現実からかけ離れた説話も少なくない。そう考えて間違いなさそうである。
byさーね

投稿者 sawatan : 2007年11月03日 List  

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コメント

縄文土器をなぜ装飾したのか?誰もがこの疑問に辿りつきますが、ryujinさんのように只只その素晴らしさに驚嘆という記事もいいですね。
それにしてもなぜこんなに装飾したのでしょう?(^^)

投稿者 案山子 : 2007年11月23日 17:42

リンク先を変えてください。
http://jomontaro.web.fc2.com/

投稿者 JWF : 2008年1月5日 07:20

JWFさんの言うとおりです。
ryujinさんはリンク先をTOP頁に修正してください。
JWFさんはリンク先の管理人の方のようで、失礼しました。4回もこのブログに記事、写真を借用させていただきこの場を借りて御礼申し上げます。また、当ブログの読者から貴方のHPへ訪問させていただきますので今後ともよろしくお願いいたします。(管理人)

投稿者 tano : 2008年1月5日 23:10

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