「お盆」と「ケガレ」から考えてみた事 |
メイン
2011年08月15日
中国の民衆史~中国の農民反乱~
「中国の民衆史」シリーズ、「中国の民衆史~農業生産と集団~」以来だいぶ間があいてしまいました
今回は、中国の農民反乱の歴史を調べてみました
農民が反乱を起こして王朝が転覆するような歴史は、世界でも中国のほかに例がありません
中国の歴史において、民衆が反乱を起こした事例を調べてみました。
すさまじい反乱が起こっています
秦を滅ぼした陳勝・呉広の乱(前209~208)
始皇帝の死の翌年。この混乱に乗じて項羽と劉邦が立ち上がった。項羽は秦の首都であった咸陽の阿房宮を破壊する。しかし最終的には新興勢力の農民出身であった劉邦が勝利し、次の王朝である漢をたてた。
→秦から漢への王朝交代時の8年間に中国の人口は2000万から1000万に半減した。大飢饉もあり、『漢書』は「人と人が食いあい、死ぬ者が半数」と伝える。
新を滅ぼした赤眉の乱(18~27)
前漢と後漢にはさまれた新という王朝の、王莽の悪政に対しておこった反乱。
後漢を滅ぼした黄巾の乱(184)
太平道という民間信仰の張角がリーダーでした。農民反乱が土着の民間宗教としばしば結びつくのも中国史の大きな特徴
後漢最盛時に5000万人まで回復した人口は、後漢末の動乱後には700万余にまで激減した。実に7分の1。これは「一つの民族の滅亡」といってもよいくらい。『三国志』によれば「江淮(揚子江と淮河にはさまれた地域)一帯は空っぽになり、人々は互いに食いあうというありさまだった」という。
唐を滅ぼした黄巣の乱(875~884)
黄巣は指導者であった塩の闇商人の名前。安史の乱ですでにぐらつき始めていた唐の支配はこの反乱によって最終的に息の根を止められてしまう。
唐最盛期に人口は5000万に復活したが、唐末の大動乱と五代十国の戦乱を経て北宋創建時に登録戸籍は300万戸になっていた。
元を滅ぼした紅巾の乱(1351~66)
この反乱で主体となった農民たちは、白蓮教徒。次の王朝である明を立てることになる朱元璋もこの乱に参加していた。
明を滅ぼした李自成の乱(1631)
明末から清初への移行時20年間、総人口は5166万(1626年)から1403万(1655年)に減っている。
清時代に起こった白蓮教徒の乱(1796~1805)、太平天国の乱(1851~64)
白蓮教徒の乱は清の中期に起きた。清が滅亡するのは辛亥革命によって。
すさまじい人口の増減で、黄巾の乱に至ってはなんと!5000万人いた人口が700万にまで激減しています
実に7分の1です
このような民族構成も変化させかねない大規模な破壊をもたらす農民反乱が、王朝末期には必ず起こっています。
中国には、「人口6000万人の壁」というものがあります。
[建国期]ある王朝が建国すると、「小さな政府」のもと、民を休ませる政策をとる。平和が続き、人口増加はプラスに転じる。経済政策では農業が重視され、商工業の加熱は抑制される。
[最盛期]人口が増え、税収も増える。政府は、官僚や軍隊の数を増やし、「大きな政府」になる。農地の開墾も進められるが、人口の増加には追いつかない。経済は商業が発達する。
[中期]人口が増えすぎ、農民は困窮する。先覚者は破局の到来を警告し、政府もあれこれ改革案を打ち出すが、どれも成功しない。経済は停滞する。商人は寡占化をもくろみ、官僚は腐敗する。
[晩期]破局の予感のもと、あやしげな宗教や迷信がはびこり、農民反乱が頻発する。農業も商業も行きづまり、文化は頽廃と爛熟の美を追求するようになる。文明の衰退に乗じて周辺民族も信仰を開始する。王朝は滅亡する。
[調整期]群雄割拠の戦乱のなか、飢饉や疫病のせいで乳幼児死亡率が高まり、平均寿命も低下し、人口が激減する。最後に勝ち残った英雄が、天下を再統一し、新王朝を建てる。こうしてサイクルの最初にもどる。
加藤徹著『貝と羊の中国人』より
下記グラフからもわかるように、トウモロコシやサツマイモなど外来の農作物が普及する17世紀まで、中国の人口が6000万人を超えることはありませんでした。
人口が6000万人に近づくと、農業生産が人口を養いきれなくなって社会不安が起こる
農民による反乱が頻発するようになり、それを鎮める(治める)ため、農民に新たな耕作地を与えるようとして支配層は周辺異民族への侵攻を始める。侵攻される国の農民は殺戮されるか、農地を失って流浪することになる。こうした状況に飢饉が重なったとき、農民は暴徒と化して他集団へ攻め入って殺し合い(しかも女・子供・老人関係なく)、人口が激減し、王朝が滅亡する
中国の歴史は、ずっとこのサイクルの繰り返しなんです。
日本で飢饉時に農民同士が殺しあったなんて歴史は聞いたことがないし、にわかには信じられないような事実ですが、中国で実際にあった出来事です
「中国の民衆史」引き続き、追求していきます
☆参考サイト☆
東アジアの地方自治
RAVCO
投稿者 pingu : 2011年08月15日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/08/1304.html/trackback