井上清氏の縄文史観~縄文時代って何? |
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2009年08月29日
民族対立が生んだ中国秘密結社「幇会」
こんばんは。
中国の裏の支配者といえば、華僑、幇(紅幇・青幇)、栄家(赤い資本家)などが思い浮かびますが、今回は、中でもチャイナマフィアと呼ばれる「幇会」についてお伝えします。
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●「幇」組織の構成 (リンク)より
集団化された中国人、または華人の組織は通常、「幇」と呼ばれる。従って、華人社会を理解するには、幇に触れる必要がある。幇は、中華民族独特なものである。中華民族の多元一体の複合要素の中で社会のバランスを維持するために、幇という集団が生まれたり、消えたりする歴史が千数百年間も繰り返されてきた。
幇は基本的に、秘密主義的な幇:「幇会」と、公開的な幇:「幇派」とに分けられ、闇社会の主流は「幇会」である。
幇
└─幇会───政 治―洪門、三合会、致公堂、等
│ └マフィア―天地会、義興、義福、海陸山、小坤堂、等
│
└─幇派───血縁───姓(苗字)
│ └地縁───省
│ └県
│ └郷
│ └村
└──────業縁───業種
└専門職
●「幇」発生の起源から (リンク)より
黒社会と総称されている中国系マフィアの起源は、明末清初に現れた「幇会(秘密結社)」であると言われている。
古代より、中国では、一種の同業組合的な民間組織が、自然発生的に各地域で誕生してきた。
たとえば、船を使った運輸業者たちは、蘇川幇、揚州幇、上江幇、江西幇などと呼ばれる結社を、両替商を営んでいた者たちは、山西封幇、安徽幇、四川幕などの団体を組織していた(「幇」という言葉は、中国語でグループ、仲間といった意味合いを持っている)。
月日のたつうちに、こうした民間結社の多くは、内部の機関を整え、活動のための資金も充実させていくなど次第にその規模を拡大していき、また、構成員の資格も同業者に限ることをやめ、その数を増やしていった。
さらに、17世紀中頃に、明朝が倒れ、新たに満州族を主体とした清朝が起こると、異民族支配に反感を抱く勢力が、これらの結社の中から現れ始める。
彼らは「反清復明」のスローガンの元に、広く民衆を糾合し、清朝政府に対し組織的な抵抗を続けた。
これが、幇会である。
幇会は、清朝末期になると、孫文率いる革命グループと結びつき、1911年に起こった辛亥革命の成功に大きな役割を果たすこととなる。
さらに、中華民国成立から、衰世凱の独裁、軍閥の割拠、北伐の完了に至る動乱の時代の中で、時の権力者と結託しながら、その力をますます強化していった。
そして、1920年代から30年代にかけて、幇会は最盛期を迎えることとなる。
●反異民族支配の源流 (リンク)より
中華民国の内戦は、中国史上に類例をみない空前の人間同士の殺し合いであった。唐の後の「五代十国」の内乱に類似しているが、社会争乱の状況は、五代以上の天下大乱であった。
ではなぜ、中華民国の時代に入ると、突如天下大乱になったのだろうか。それは、文明、文化、政治、社会、経済の要因からその根源をさぐってみなければならない。
北洋軍閥と南方革命軍閥の対決は、たんに南京政府や広東政権と北京政権の中華民国の政権をめぐる争奪だけではなく、その背後には文明、文化的に「南船北馬」に象徴される黄河文明と長江文明の対立があった。春秋時代の尊王攘夷の「夷」とは楚越を指すものであり、南北の対決は蒋介石の北伐後に至るまで、南人と北人の文化摩擦としてつづいた。中国内部にひそむ文明の衝突である。
上記は中華民国時代の話しですが、幇会にも同じことが言えるのではないか。
幇会は主要には江南地区を中心に発生しており、清朝による異民族支配を契機に組織され拡大していってるが、その背景には、古代からの南北間の異民族対立が根強く横たわっているのではないか。
江南系、長江流域といえば、道教の発祥の地、奥地の雲南省には未だに母系制が残る民族もいる、古くは長江文明滅亡時には海を渡って日本に渡来してきている、ヤマト朝廷の源流は雲南の農耕民族と江南系海洋民族の和合合体とも云われている、など日本との関わりも深いがあまり追求できていないところでもあります。
中国史を見ていく上では、長江文明から続く江南系に注目してみるのも面白いかも。
投稿者 nishipa : 2009年08月29日 TweetList
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コメント
投稿者 nishipa : 2009年10月15日 21:04
鎌倉以降は、天皇家が力を失い、武力が支配する時代になったのですね。元々の天皇家の力の源泉ってなんだったのでしょうか?神?人々の畏怖心?不思議ですね。
投稿者 Hiroshi : 2009年10月15日 22:30
nishipaさん、Hiroshiさん、コメントありがとうございます。
nishipaさんの
>「神の威光で統治する」朝廷の支配が続かなかったのは何故なんでしょうね。
と
Hiroshiさんの
>元々の天皇家の力の源泉ってなんだったのでしょうか?神?人々の畏怖心?
同じような疑問ですね。私は思います。大王は、当初は、土着民族は、まだ、精霊信仰のような自然への畏敬の念が強く、「神の威光」への収束度が古代は高かったのでしょう。庶民支配はそれを利用したのでしょう。修験山伏などの諜報機関を使い災いを起こし、神の威光に従わない場合は、祟りがあると・・・
また、支配部族の氏族どうしは、争いはありましたが、支配をうまく分担していたように思います。しかし、記紀編纂時には、かなり、私有意識がはびこり、神の威光を強調する必要があったと思います。氏族間の同類闘争を制御するために必要だったともいえます。大王も神格化はされ、武力も下級氏族に依頼するようになります。
それ以降、私有意識増大で、観念支配ではままならず、武力支配が上回ってきたのでしょう。
それが、鎌倉時代前後なのだと思います。
もともと、大王家の【神の威光】という権力統治は、観念支配(倒錯観念)と背後の諜報機関=警察組織が源泉で、私有意識増大と下方拡散→武力統治が上回ってきたのだろうと思います。それが、南朝(権威)と北朝(武力)の分離のような気がします。
投稿者 2310 : 2009年10月15日 22:57
天皇の支配は、精神面:支配観念では「神の威光」として神社をつくり、その共認形成機関として僧侶、白拍子を使い、武力面としては修験山伏などの諜報機関を使い、それをミックスして効果的な体制を作っていたということですね。
ありがとうございます。大変良くわかりました。
この体制が永く続かなっかたのは、大衆は共認支配できたのですが、武士には共認支配できなかった(天皇は神ではない、大陸からきた民族のひとつと武士にはばれていた)ことの上に私有意識がたかまったということではないでしょうか?
投稿者 norio : 2009年10月16日 21:52
長編、お疲れ様でした☆
2310さんのコメントにありますが、
>それ以降、私有意識増大で、観念支配ではままならず、武力支配が上回ってきたのでしょう。
は重要な論点が隠されているように想いますが、一旦、2310さんの仮説を事実とした場合、「私有意識が増大したのはなぜか?」という新たななんで?が浮かびます。
私有意識増大を規定するものはなにか?
人類の歴史構造から学ぶと、最基底部には「貧困の圧力」があり、それに塗り重ねられた形で生産様式の変化、集団の統合していくための婚姻様式の変化がありそうです。
さらに、観念内容の中身の変化も気になるところです。
そのようなファクターを一つ一つ追求しながら、それらの繋がりを押さえていけば、なんで?の答えに肉迫できるような気もします。
一緒に追求していきましょう~♪
投稿者 やっさん : 2009年10月17日 17:38
いやはや長編ですね。
支配観念とその共認形成機関(僧侶、白拍子)、一定の武力(僧兵、郷士)、役人(神官、小領主)、経済力などを保持しながらも、「神の威光で統治する」朝廷の支配が続かなかったのは何故なんでしょうね。
末端まで貫徹する身分序列体制を構築出来なかったから?。
根本には、それを可能にする絶対的な武力基盤を組織化出来なかったから、ということなのでしょうか。