シリーズ「人類の部族移動」その11 まとめ ~東洋と西洋~ |
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2011年06月09日
中国とは何者か?~古代中国の農民<共同体から家族制へ>
周代までの古代中国では、主には黄河中流域の中原の農業生産に依存していました。
「黄河中流域の農業?」って言うと、今の黄河流域からは想像も出来ませんが、実は周代までの黄河流域は緑に覆われていたようです。(参考:春秋戦国時代の章『古代中原は緑に覆われていた』)
一般的に農民の家族制への変化は春秋戦国期における鉄製農具と牛耕が始まり、生産性が向上によるものであると考えられますが、果たしてそれは本当であったのでしょうか?
夏・殷時代の神権政治から周の封建制へ、そして春秋・戦国時代を経て秦の中央集権制と移行しますが、農業生産を支えていた農民はどのように変わったのでしょうか?
【邑という農業共同体(夏・殷)】
周代までの古代中国を語るときに、邑は避けて通れません。邑は当時の社会の最小構成単位であったようです。
邑という字は口と巴からできており、「口」は人々が住んでいた集落を取り囲む城壁・土塁を、「巴」は人が座っている姿を字にしたもの。つまり、人が集まって城壁・土塁の中で暮らしている。これが邑というわけです。こういう邑が黄河中流域の中原にはたくさんできてきます。
邑の住民は祖先を同じくする氏族集団だったといわれています。もしくは複数の氏族集団が一つの邑を建設した事があったかもしれません。邑は集落とも、農村とも、都市とも言って良いのではないでしょうか。
もともと同一の起源を持つ大きな血縁集団である部族は共通の「姓」を名乗っていたのですが、同じ部族でも居住地ごとに違う「氏」を名乗るようになり、氏族に分かれるようになっていったのです。1つの邑につき1つの氏族が治めていたということになり、それぞれの邑ではそこを治める氏族の祖先の祭祀が行われていたようで、祖先崇拝が重んじられたようです。
この邑が幾つも集まって都市国家に属して、都市国家の王の支配する王国を形成していました。この邑の中には、中華の民となった夷の氏族の支配する邑もあったでありましょうし、また、中華化した夷の氏族の支配する都市国家や王国も存在したでしょう。
これらの邑を支配する氏族が都市国家の王の支配を受け、都市国家に租を納めて労役や兵役を提供していたのです。つまり都市国家やそれを中核とした王国を支えていた基本単位は氏族だったのです。初期の中原の社会はこうした氏族社会でした。
「中国五千年倶楽部」スタッフ通信より |
この邑の連合体の長として、歴史に登場するのが夏であり、殷となっています。なお、殷については、3500年前からの寒冷・乾燥化によって玉突き的に移動をしてきたモンゴル族という可能性が高いようです。(参考:【中国】殷王朝の成立過程)
邑と邑の支配被支配の関係は成立していましたが、上位の邑の長が下層の邑の民を支配すると言うことはなかったようです。そこには、邑と邑の支配被支配の関係が成り立つのみであり、その中の構成民にまで影響が及ぶことはなかった。
当時の生産力は低いものであり、支配する側の邑が支配されている側の邑から余剰生産物を収奪し支配する邑の食糧をまかなっていた、つまり、生産を受け持つ農村、消費する都市という構図は考えにくいのです。事実、殷は奴隷を使った農業生産が行われており、殷墟からは大量の石鎌が発掘されています。
つまり、殷と邑には支配関係があったようですが、邑の中では族長を中心とした氏族共同体として農業が営まれていたようです。
【統合階級による邑の解体(西周)】
牧野(ぼくや)の戦い(殷周革命)で殷に勝利をおさめた周でしたが、生産を農業に依存しているという構造は変わらず、殷と同様に農民国であったと考えられています。
ただし、生産も軍事も奴隷に頼っていた体制が殷のそれだったのに対し、周は封建制をとるようになります。周の諸侯としての地位を保証する一方で、貢物をささげ、必要に応じた軍事的奉仕の義務を負わせます。
この封建に伴って、邑の中は支配者層(国人)と被支配者層(邑民)に分かれます。しかし、国人が農業生産を行っていないかというとそういうわけではなく、農耕していたことが認められていました。 周代には、周王の下に諸侯、諸侯の下に家臣と別れ、夫々がそれぞれに邑を支配していました。
ここまでなら、多少の体制の変化はあったとしても、邑の基本的な構造(共同体)が変わることはありませんでしたが、決定的な問題が生じてきます。
周は建国以来、領土拡張政策を採ってきましたが、周によって土地を追われた側もこれ以上後退できないという線に立ち、死力を尽くして戦ったのをきっかけに周の領土(土地)拡大が停止してしまったのです。
諸侯たちに与える領地がなくなってしまうと、現在の領土(農地)を細分化して与えるようになります。この時点で、土地の賜与の引き換えに軍事的奉仕を伴うといったことはなくなり、ただ単に土地からの収益を収奪するという目的に置き換わっていきます。
本来は邑に住む農民と邑の農地が一体化していたのが従来の農村社会でしたが、支配者階級の一方的な都合で、その中の土地を細分化により、同じの邑の耕作地で同じ邑の農民が工作していても、その支配者が異なるという現象が発生し、その結果、従来の氏族共同体で行っていた共同耕作は崩れ、邑に存在していた共同性は崩れ始めていきます(※このことは周王室の政策のためばかりではなく、貴族間でも土地を切り取り売買することが行われていたらしい)。
また、共同性の崩壊は共同体内部にもその動きが起き始めていました。従来邑民(農民)から干渉を受けていた族長の権力が強くなり、族長による中間搾取が激しくなります。たまりかねた農民が逃亡するという事件が起き始めるようになります。これは、新しい封地をもらえなくなった封建領主が他領の農民の呼び込みや勧誘を行っていたとも考えられます。
一方、細分化された土地では生産量もあがらず、農民たちは貧困化していくことになりますが、これも支配者階級の一方的な都合で、土地の細分化を防ぐために土地の長子相続制が採られます。
その結果、家長に権力が集中することになり、分家が行われなくなり、長子以外の子供たちを長子に仕えさ、労働者化していきます。従って、家族内である程度のまとまった労働力が確保でき、邑の集団農法に頼らなくてもよくなってきます。
つまり、長子相続制によって農民は邑に頼らなくなり、邑の共同性は崩れだし、家族制へ移行していきます。農民の邑からの逃亡も家族単位での行われたと考えられます。
実際、西周末期には、大克鼎という青銅器に他領に逃亡する農民のことが書かれており、農民が邑や耕地に縛られず、それ以外の場所で生活できることを示しています。
【生産性向上による共同体の崩壊(春秋・戦国)】
春秋・戦国時代になると、鉄製農具の登場と牛耕が始まります。
中国では錫の産出が少なく、銅と錫の合金である青銅器は貴重品で、主に祭器・武器に使われ、農具としては使用されていません。従って春秋時代になっても農具は石器・木器であったとされています。ところが、前6世紀から前5世紀頃、鉄の製法が西方から伝わると、鉄の生産は急激に増大していきます。中国文明では鍛鉄より先に鋳鉄が先に作られましたが、初期の鋳鉄はもろくて武器に適さなかったため農具に使わるようになります。
「熱帯牛スペシャリストを目指して」より |
鉄製農具の使用によって、土地をより深く耕すことが可能となり、単位面積あたりの収穫量が増えていきます。それに加え、森林地帯まで開墾が可能=新しい農地の獲得が可能となります。従って、従来の邑で共同体的に保有されていた農地ばかりでなく、それ以外の耕地が出現し始めるようになったのです。
さらに、戦国時代には鉄製農具が一般に普及するようになり、牛に犂(すき)をひかせる牛耕農法が発明され労働力の代替手段となっていきます。
つまり、鉄製農具と牛耕により飛躍的に労働生産性が向上し、商業及び貨幣経済の発達へと向かいます。
こうなると、ますます共同体の必要はなくなり、ますます家族耕作へと向かわせ、周代の封建制度の崩壊だけでなく邑そのものも解体されます。なお、公有であった土地は私有となり、後に私権強者である大土地所有者である豪族を生み出すことになっていきます。
このような共同体の解体は秦の時代になっても続いていきます。例えば、生産性向上のための『分異の法(強制的に分家させて新開地に移住させる)』、徴税のための『什伍の制(農民を隣組に編成)』などが考えられます。
【まとめ】
邑の氏族共同体は、周代の支配階級による邑の細分化及び長子相続制を背景に、邑の共同性から徐々に家族制へと意識の変化が顕在化してきます。
そんな中、春秋・戦国時代の鉄製農具の登場と牛耕によって、技術的にも家族単位での農耕を可能となり、共同性だけでなく邑そのものも解体され、家族制・個人主義へと向かっていったようです。
投稿者 yoriya : 2011年06月09日 TweetList
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コメント
投稿者 とんさいや : 2011年12月3日 18:05
『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*
失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんがった泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。
書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。
では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
②貴重な金石文を正確に読みましょう。
③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。
石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
(過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
(すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ) ⇒誉田(ほむた)
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。
その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。
しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。
なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。
結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。
では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。
石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。
古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃
で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。
古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】
大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。
しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。
隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。
まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。
石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書記です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。
石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書記の編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。
見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。
私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』
とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。
で、くどいけど 前方後円墳は4世紀後半からですよ。。。
投稿者 むらかみからむ : 2012年1月24日 00:49
大変興味深く読ませていただいております!
当方どものブログもいっぺん見たってください!