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中国とは何者か?~古代中国の農民<共同体から家族制へ>

Posted By yoriya On 2011年6月9日 @ 11:51 PM In Ⅴ中国文明,実現論の改訂 | 2 Comments

周代までの古代中国では、主には黄河中流域の中原の農業生産に依存していました。
「黄河中流域の農業?」って言うと、今の黄河流域からは想像も出来ませんが、実は周代までの黄河流域は緑に覆われていたようです。(参考:春秋戦国時代の章『古代中原は緑に覆われていた』 [1]

一般的に農民の家族制への変化は春秋戦国期における鉄製農具と牛耕が始まり、生産性が向上によるものであると考えられますが、果たしてそれは本当であったのでしょうか?
夏・殷時代の神権政治から周の封建制へ、そして春秋・戦国時代を経て秦の中央集権制と移行しますが、農業生産を支えていた農民はどのように変わったのでしょうか?

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【邑という農業共同体(夏・殷)】
周代までの古代中国を語るときに、邑は避けて通れません。邑は当時の社会の最小構成単位であったようです。

邑という字は口と巴からできており、「口」は人々が住んでいた集落を取り囲む城壁・土塁を、「巴」は人が座っている姿を字にしたもの。つまり、人が集まって城壁・土塁の中で暮らしている。これが邑というわけです。こういう邑が黄河中流域の中原にはたくさんできてきます。

邑の住民は祖先を同じくする氏族集団だったといわれています。もしくは複数の氏族集団が一つの邑を建設した事があったかもしれません。邑は集落とも、農村とも、都市とも言って良いのではないでしょうか。

もともと同一の起源を持つ大きな血縁集団である部族は共通の「姓」を名乗っていたのですが、同じ部族でも居住地ごとに違う「氏」を名乗るようになり、氏族に分かれるようになっていったのです。1つの邑につき1つの氏族が治めていたということになり、それぞれの邑ではそこを治める氏族の祖先の祭祀が行われていたようで、祖先崇拝が重んじられたようです。

この邑が幾つも集まって都市国家に属して、都市国家の王の支配する王国を形成していました。この邑の中には、中華の民となった夷の氏族の支配する邑もあったでありましょうし、また、中華化した夷の氏族の支配する都市国家や王国も存在したでしょう。
これらの邑を支配する氏族が都市国家の王の支配を受け、都市国家に租を納めて労役や兵役を提供していたのです。つまり都市国家やそれを中核とした王国を支えていた基本単位は氏族だったのです。初期の中原の社会はこうした氏族社会でした。

『殷の支配氏族は遊牧部族だった その1』 [4]より

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「中国五千年倶楽部」スタッフ通信 [5]より

この邑の連合体の長として、歴史に登場するのが夏であり、殷となっています。なお、殷については、3500年前からの寒冷・乾燥化によって玉突き的に移動をしてきたモンゴル族という可能性が高いようです。(参考:【中国】殷王朝の成立過程 [6]

邑と邑の支配被支配の関係は成立していましたが、上位の邑の長が下層の邑の民を支配すると言うことはなかったようです。そこには、邑と邑の支配被支配の関係が成り立つのみであり、その中の構成民にまで影響が及ぶことはなかった。

当時の生産力は低いものであり、支配する側の邑が支配されている側の邑から余剰生産物を収奪し支配する邑の食糧をまかなっていた、つまり、生産を受け持つ農村、消費する都市という構図は考えにくいのです。事実、殷は奴隷を使った農業生産が行われており、殷墟からは大量の石鎌が発掘されています。

つまり、殷と邑には支配関係があったようですが、邑の中では族長を中心とした氏族共同体として農業が営まれていたようです。

【統合階級による邑の解体(西周)】
牧野(ぼくや)の戦い(殷周革命)で殷に勝利をおさめた周でしたが、生産を農業に依存しているという構造は変わらず、殷と同様に農民国であったと考えられています。
ただし、生産も軍事も奴隷に頼っていた体制が殷のそれだったのに対し、周は封建制をとるようになります。周の諸侯としての地位を保証する一方で、貢物をささげ、必要に応じた軍事的奉仕の義務を負わせます。

この封建に伴って、邑の中は支配者層(国人)と被支配者層(邑民)に分かれます。しかし、国人が農業生産を行っていないかというとそういうわけではなく、農耕していたことが認められていました。 周代には、周王の下に諸侯、諸侯の下に家臣と別れ、夫々がそれぞれに邑を支配していました。
ここまでなら、多少の体制の変化はあったとしても、邑の基本的な構造(共同体)が変わることはありませんでしたが、決定的な問題が生じてきます。

周は建国以来、領土拡張政策を採ってきましたが、周によって土地を追われた側もこれ以上後退できないという線に立ち、死力を尽くして戦ったのをきっかけに周の領土(土地)拡大が停止してしまったのです。

諸侯たちに与える領地がなくなってしまうと、現在の領土(農地)を細分化して与えるようになります。この時点で、土地の賜与の引き換えに軍事的奉仕を伴うといったことはなくなり、ただ単に土地からの収益を収奪するという目的に置き換わっていきます。

本来は邑に住む農民と邑の農地が一体化していたのが従来の農村社会でしたが、支配者階級の一方的な都合で、その中の土地を細分化により、同じの邑の耕作地で同じ邑の農民が工作していても、その支配者が異なるという現象が発生し、その結果、従来の氏族共同体で行っていた共同耕作は崩れ、邑に存在していた共同性は崩れ始めていきます(※このことは周王室の政策のためばかりではなく、貴族間でも土地を切り取り売買することが行われていたらしい)。

また、共同性の崩壊は共同体内部にもその動きが起き始めていました。従来邑民(農民)から干渉を受けていた族長の権力が強くなり、族長による中間搾取が激しくなります。たまりかねた農民が逃亡するという事件が起き始めるようになります。これは、新しい封地をもらえなくなった封建領主が他領の農民の呼び込みや勧誘を行っていたとも考えられます。

一方、細分化された土地では生産量もあがらず、農民たちは貧困化していくことになりますが、これも支配者階級の一方的な都合で、土地の細分化を防ぐために土地の長子相続制が採られます。
その結果、家長に権力が集中することになり、分家が行われなくなり、長子以外の子供たちを長子に仕えさ、労働者化していきます。従って、家族内である程度のまとまった労働力が確保でき、邑の集団農法に頼らなくてもよくなってきます。

つまり、長子相続制によって農民は邑に頼らなくなり、邑の共同性は崩れだし、家族制へ移行していきます。農民の邑からの逃亡も家族単位での行われたと考えられます。

実際、西周末期には、大克鼎という青銅器に他領に逃亡する農民のことが書かれており、農民が邑や耕地に縛られず、それ以外の場所で生活できることを示しています。

【生産性向上による共同体の崩壊(春秋・戦国)】
春秋・戦国時代になると、鉄製農具の登場と牛耕が始まります。

中国では錫の産出が少なく、銅と錫の合金である青銅器は貴重品で、主に祭器・武器に使われ、農具としては使用されていません。従って春秋時代になっても農具は石器・木器であったとされています。ところが、前6世紀から前5世紀頃、鉄の製法が西方から伝わると、鉄の生産は急激に増大していきます。中国文明では鍛鉄より先に鋳鉄が先に作られましたが、初期の鋳鉄はもろくて武器に適さなかったため農具に使わるようになります。

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「熱帯牛スペシャリストを目指して」 [7]より

鉄製農具の使用によって、土地をより深く耕すことが可能となり、単位面積あたりの収穫量が増えていきます。それに加え、森林地帯まで開墾が可能=新しい農地の獲得が可能となります。従って、従来の邑で共同体的に保有されていた農地ばかりでなく、それ以外の耕地が出現し始めるようになったのです。
さらに、戦国時代には鉄製農具が一般に普及するようになり、牛に犂(すき)をひかせる牛耕農法が発明され労働力の代替手段となっていきます。

つまり、鉄製農具と牛耕により飛躍的に労働生産性が向上し、商業及び貨幣経済の発達へと向かいます。
こうなると、ますます共同体の必要はなくなり、ますます家族耕作へと向かわせ、周代の封建制度の崩壊だけでなく邑そのものも解体されます。
なお、公有であった土地は私有となり、後に私権強者である大土地所有者である豪族を生み出すことになっていきます。

このような共同体の解体は秦の時代になっても続いていきます。例えば、生産性向上のための『分異の法(強制的に分家させて新開地に移住させる)』、徴税のための『什伍の制(農民を隣組に編成)』などが考えられます。

【まとめ】
邑の氏族共同体は、周代の支配階級による邑の細分化及び長子相続制を背景に、邑の共同性から徐々に家族制へと意識の変化が顕在化してきます。
そんな中、春秋・戦国時代の鉄製農具の登場と牛耕によって、技術的にも家族単位での農耕を可能となり、共同性だけでなく邑そのものも解体され、家族制・個人主義へと向かっていったようです。


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[4] 『殷の支配氏族は遊牧部族だった その1』: http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=241079

[5] 「中国五千年倶楽部」スタッフ通信: http://china5000.clublog.jp/e19139.html

[6] 【中国】殷王朝の成立過程: http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=252650

[7] 「熱帯牛スペシャリストを目指して」: http://nichiju.lin.gr.jp/mag/06104/06_6a.htm

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