「南から見た縄文」7~江南地方に縄文の源流を探る |
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2011年05月09日
シリーズ「人類の部族移動」その7 シュメール人の出自
前回(その6)で南欧以北の欧州と原欧州人について記載しました。
今回は、人類最高の文明を作ったと言われる謎のシュメール人について迫ってみます。
部族移動の史実から『シュメール人は黒人であった。そしてシュメール人は、セム語族に皆殺しにされ、そのシュメール人の残党がインダス文明を滅ぼした』が推論されます。
2/6なんでや劇場(2) 原欧州人とシュメール人の出自
イラン高原で登場したKが原シュメール人(黒人)。それがアナトリアに移動してセム族Jとハム族Eと混血し、6500年前の温暖期により肥沃なメソポタミア下流域に移動した。そして1万年前以前からメソポタミアに住んでいたウバイド人(黒人)と混血したのがシュメール人である。つまり、シュメール人とは、セム族Jやハム族Eの血が混じっているとは言え、ほぼ黒人であると考えてよい。実際、シュメール人は自分たちのことを「黒い頭」と呼んでいる。
黒いシュメール(画像は、こちらからお借りしました)
しかし、シュメールは4000年前にセム族によって乗っ取られる。4380年前にシュメール都市国家にセム族が侵入。セム族がアッカド建国。4200年前にはシュメールが再び奪い返すが、4000年前にはセム族がバビロニア建国。メソポタミアのシュメール人は絶滅し、それ以降メソポタミア地方はセム族に支配されることになる。
生き残ったシュメール人が、彼らの植民地であるインダスへ流れていった(シュメールとインダスが頻繁に交流していたことから考えても、インダス文明があった現在のパキスタンは人口の90%がイスラム教徒になっていることから考えても、メソポタミア~インダスは行き来が頻繁な地域であった)。このシュメール人とインド原住民の原モンゴロイドの混血がドラヴィダ人だと考えられる。
画像は、こちらからお借りしました。
インダス文明及びドラヴィダ人とシュメール人に関する参考記事をご覧ください。
インダス文明はいかにして成立したか
ドラヴィダ人はシュメール人から派生しているのではないか?
インドの民族~ドラヴィダ人はシュメール人とどの民族の混血か?
その後、ドラヴィダ人はインダス文明を放棄して拡散していった。学説ではインダス文明消滅の理由は乾燥化説や洪水説で、アーリア人に攻められたのではないという説が主流だが、もう一方に残る次の事実は捨象されたままになっている。
インダス遺跡の一つモヘンジョダロは「死者の谷」と呼ばれ、大量の死体が発見されている。皆殺しに近い殺戮があったわけだが、それはアーリア人の仕業ではないとすれば、誰がドラヴィダ人を殺したのか?
⇒それもシュメール人ではないか。
セム族に攻められ、メソポタミアで皆殺しにされて命からがら逃げ出したシュメール人が恐怖に駆られたまま植民地インダスに押し寄せてドラヴィダ人を皆殺しにしたのではないだろうか。
死の都と呼ばれるモヘンジョダロの遺跡と発掘された遺体(頭部に鈍器で殴られた後)
画像は、「死の都 モヘンジョダロ」 からお借りしました。
次回は、いよいよ最初の略奪闘争(戦争)について記載します。
投稿者 ryou : 2011年05月09日 TweetList
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コメント
投稿者 tano : 2011年10月31日 12:45
昨日のなんでや劇場(るいネット主催)で中国について扱われました。東洋と西洋という比較の中でその私権性や私有制度の根強さは西洋が1枚も2枚も上手であるという結論に至ったかと思います。そこでの比較でなるほどと膝を打つ認識がありました。
西洋も東洋も遊牧部族による農耕民からの略奪は変わらないのですが、西洋は支配者自身が寄せ集めのギャング集団であるという点です。つまり、支配者自身が既に氏族集団としての体を成していないという点です。一方東洋は支配者自身がまだ氏族としての共同体を温存しており、集団性が残っていた。東洋と西洋の決定的違いはそこにあります。
だから西洋は支配した後は法制度が必要になり、分配という点において(略奪集団内での)平等という観念が真っ先に必要になったのです。その点、中国は氏族が残っているため、そのような観念は必要なかった、だから支配した後も占いや先の遊牧民の頃から行っていた遠隔交易を行いながら支配氏族の力を温存、延長させていったのだと思います。
昨日のなんでや劇場での新たな認識を加えながら、中国シリーズをまとめていきたいと思います。(管理人)