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2011年03月31日

牧畜→遊牧はどのように伝播していったか1

3月のなんで屋劇場では、牧畜→遊牧のユーラシアにおける展開がその後の、私権時代を決定付けたことが明らかになりました。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=247160
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=247161
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=247167
今日は、この牧畜→遊牧のユーラシアにおける展開について、歴史を追ってみていこうと思います。
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● 牧畜の起源
牧畜の起源地は概ね、肥沃な三角地帯といわれる農耕起源地の中でも、低湿地帯ではなく天水農耕が営まれた丘陵地帯においてである。(西アジアではレバント地方・トルコタウルス山脈南麓・イラン東部ザグロス山脈西麓)ことは東アジアでも同様で、牧畜は農耕起源地である長江流域では始まらず、中国黄河上流域の草原地帯で5000年前に始まっている。
牧畜は、森林地帯でもなく、湿原地帯でもなく、草原地帯から始まった・・・これは何故だろうか?
森林は良くも悪くも、非常に多様性にとんだ動植物の宝庫であり、南方でも北方でも、狩猟採集生産段階からの転換はもっとも遅れる地域である。逆にいえば、多様な生物たちの食物連鎖の中に人類もある。弓矢を手にしているとはいえ、狩猟採集生産とは自然との闘いの日々であり、極端に人口が増大することも適わない。彼ら森の狩猟民は、自然を畏怖し、同時に自然の恵みに感謝して生きる、原始以来の精霊信仰を維持しながら生活を続けている。逆に言えば、動物たちを一定の縄張りに囲い込み、生殖行為を管理する、牧畜的生産は、実は非常に遠い。
他方、湿地帯では、採集生産を土台に初期栽培を発明し、農耕へと転じて行った。勿論、豊かな植物群を狙って動物たちも侵入してきたことが考えられるが、それは狩猟してしまうだけであり、彼らを飼育しようとは考えなかった。普通に考えても、動かない植物を栽培するのに比べれば、動き回る動物を飼育するという仕事は、数倍高度である。
しかし、これが、森林と湿地帯の中間領域である丘陵地帯であれば、どうなったであろうか。丘陵地帯は湿地帯から農耕技術が伝わり、天水農耕を営み始めた。ところが森林地帯に近いから、農作物を狙って山羊や羊がわんさかやってくる。しかも、この地域の人たちは、こうした森林から草原に周期的にやってくるガゼルを狩猟する「追い込み猟」を知っていた。
追い込み猟とは、草原地帯に土塁をつくって、ガゼルをそこに追い込んで行き、最後は、生け捕りする、という狩猟法であり、この生け捕りした動物たちに草を与えれば、そのまま牧畜となる。もともと栽培よりも、囲みこみ猟を得意としていた彼ら草原の狩猟民たちが、栽培に精を出すよりも、山羊や羊を「囲い込む」方が得策だ、と考えたのは必然であっただろう。
こうして、森林でもなく、湿地帯でもなく、その中間領域である丘陵地帯=草原地帯においてはじめて、牧畜が始められたのである。しかし、山羊や羊の肉を食料とするだけでは、生産性は栽培を超えることはないので、これほど牧畜は広がらなかったであろう。ある時、彼らは山羊や羊の肉ではなく乳を食料とすることが可能だということを発見した。そして囲い込みに続いて、搾乳技法を手に入れることによって、半農半蓄の生産様式は、一気に西アジアの草原地帯に広がっていくことになる。
搾乳の起源はこちらを参照下さい↓
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=247020
初めは、手なづけやすい羊・山羊が牧畜の中心であったが、当時北方には、馬・牛を狩猟対象とする文化があり、彼らが羊・山羊の牧畜を真似て、馬・牛の牧畜と搾乳を始めたようである。
以下、ナショナルジオグラフィックニュース
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=63936611&expand#title より
乗馬とウマの搾乳の先駆者は、いまはカザフスタンの国土となっている広大な草原に暮らしていた人々だった。少なくとも5500年前、この地域の人々がウマを家畜として飼い慣らしていたという新しい証拠が見つかった。「ウマを食用としただけでなく、その乳も利用していた。この地域では、非常に早い段階から乗馬と搾乳の両方が行われていた」と、今回の研究を指揮したイギリス、エクセター大学の考古学者アラン・ウートラム氏は話す。ウマがいつ頃から家畜化されていたかについては長年の研究対象だった。なぜなら、荷物の運搬を動物に頼ることで人間社会が一変したからである。物資の輸送がスピードアップし、遠隔地交易が実現され、新しいスタイルの武力衝突が始まったのだ。
馬の家畜化がいかに重要かは、ナショナルジオグラフィックニュースも指摘している通り、馬の家畜化によって、人類の行動圏が一気に広がったことにある。実際、カザフスタンはウラル山脈の東側ボタイからこの5500年前の馬家畜の遺跡が出ている。
● 遊牧の起源
草原における半農、半畜集団が人口増大し、他方で、乾燥化の波に飲まれると、どうなるか。必然的に、日帰り牧畜のような形で、その牧畜域を広げることになったであろう。しかし、1月、あるいは半年に渡って、母集団を離れた遊牧となるとなかなか難しいものがある。しかも、女子供を連れて、となるとかなり難しい。この長期遠征型の遊牧を可能にしたのが馬という輸送手段の獲得だったのである。
そして、この馬の発明により、遊牧域は一気にモンゴル西部、新疆ウイグル自治区にまで到達し、アファナシェヴォ文化として花開く。また3800年前にはエニセイ川の流れるミヌシンスク盆地に到達し、モンゴロイドにも伝えられる。オクネフ文化の始まりである。
以下、ウィキペディアより
>アファナシェヴォ文化:紀元前3500年から2500年頃、中央アジア北東部からシベリア南部にかけて栄えた文化で、銅器時代後期ないし青銅器時代前期に当たる。シベリア・ミヌシンスク盆地のアファナシェヴォで最初に発掘調査されたが、現在のモンゴル西部、新疆ウイグル自治区北部、カザフスタン中東部にまで広がっていた。
以下、ウィキペディアより
>オクネフ文化(オクネフぶんか、Okunev culture)とは、ミヌシンスク盆地を中心とするシベリア南部の青銅器時代の文化で、紀元前2千年紀前半に栄えた。同地域には、前にはアファナシェヴォ文化が、後にはアンドロノヴォ文化が栄えている。1928年に墓地が発掘されたハカス共和国の地名オクネフにちなむ生活様式は牧畜(羊・牛など)が中心で、漁労も行われた。墓は方形で石に囲まれ、大型のものでは20メートル四方ほど、一般に複数人が埋葬された。副葬品は道具類で、これから見る限り顕著な階級分化はなかったようである。また石に彫られた人物像などもある。この文化の担い手は人種的にはモンゴロイドで、アファナシェヴォ文化とアンドロノヴォ文化がいずれもコーカソイドによるもので西方に起源するといわれるのと対照的である。

投稿者 staff : 2011年03月31日 List  

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