シリーズ「人類の部族移動」その8 印欧語族の登場と人類最初の戦争 |
メイン
2011年05月19日
中国とは何者か?~農業の伝播~
文明の起源が世界四大文明(メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明)にあると言う、一昔前に流布し考古学では一般的でした。
その為、日本など東アジア諸文明の原点が、中国文明にあると考えている人々は多いのではないだろうか?
これも一昔前、人類は諸大陸で同時発生的に誕生したとする説が主流だった。この人類同時発生説と密接にリンクしたのが、四大文明説だった。しかし、今ではDNAの解析などにより、人類の起源はアフリカにあることが判明している。これは文明の発達にも同じことが言える。
変水流体術 中国文化の源泉は西アジアより
■代表的な農業地域 多文明共存時代の農業/高谷好一/人間選書241 p24より |
つまり、文明も人類の到達した足跡に沿って、アフリカに近い地域から発達し、遠くへと伝播して行ったと思われます。
今回は農業を中心にその伝播を辿ってみたいと思います。
穀物農業の起源中心地域は西アジアのファータイル・クレセント(イランのザクロス山脈からレヴァントにかけて)とメソポタミア地域となっており、当初は、カシとピスタチオの疎林地帯に自生する野生ムギあるいは雑草型ムギから非脱粒性の突然変異種を見つけ、オアシスの灌漑農地で栽培することから始まったとされています。
そして、周辺へと伝播していきますが、伝播した先々で新たな環境に適応して、新しい展開をとげることになります。いわゆる地域農業が出現し、成熟していくのです。
【オアシス灌漑農業の伝播】
肥沃な三日月地帯からムギ作がメソポタミアの砂漠に降下してきて、オアシス灌漑農業を発展させると、それは刻を移さずして、東西に伝播しました。西にはナイル・デルタに到り、東にはインダス河谷、黄河中上流域と伝わります。
ザクロス山脈の西麓に近い所にあるチョガマミ遺跡では、7500年前の灌漑水路(畑)が発見されていますが、それとほとんど同じ時期に黄河流域にはムギとキビを出す半玻(はんぱ)遺跡が現れています。
このオアシス灌漑農業は多くの地点で同時発生したものではなく、ひとつの地点で発生し、そこから伝播したものであることは確かなようです。
各地点のもつ文化要素のセットがあまりにもよく似ていて、そう考えざるをえないようです。例えば、栽培作物になったムギ、犂、蹄耕脱穀、水路灌漑の組合わせがそれであり、羊や牛が伴われていることも同じです。
すべてこちらからお借りしました |
それに、もっとはっきりと裏付けるものとして彩文土器があります。メソポタミアの彩文土器と黄河流域の彩陶は本当によく似ており、こんな手のこんだ、しかも個性的なものでそれぞれ独立して発生したとはちょっと考えにくいのです。
※ | 右の写真は中国仰韶遺跡から出土した彩色土器と西アジアの彩色土器が酷似していることを示すものです。 |
また、7000年前という早い時期に砂漠地帯が農業の中心地、したがって人間活動の中心地になっていたのは、森林地帯と比較して、開墾がしやすかったこと、また、湿気もなく病原菌の少なく衛生環境がよかったことなどが考えられ、この砂漠地帯に集中的に住みついたようです。
なお、水の得られる場所が限られているということから集住の形態は都市的になり、農業そのものは園芸的にならざるをえなかったようです。
【鉄器時代~灌漑から天水農業へ~】
しかし、鉄器時代に入ると事態は変わってきます。3000年前、人々は鉄器を手に入れると周辺のサバンナや混交林地帯の開拓に向かいます。
こうなると、農業はいろいろの地方的展開を行うようになります。オアシス灌漑農業は自分とは違った子を産みます。サバンナや混交林地帯では砂漠と違って少しは雨もあるから天水農業が可能であったのです。
黄河流域を含んだ北側の華北では、四大古代文明の時代にはすでに相当発達した畑作を行っていました。考古資料が多いのは陝西(せんせい)省などです。先に少し触れた彩陶を出す遺跡がいくつかありますが、そこからはアワやキビ、オオムギなどが検出されています。これに伴って、豚、牛、羊などが多く出てきており、家畜飼育を伴った畑作があったと考えられています。時代としてはメソポタミアと同時期としてよいと思われます。
ただ、メソポタミアに比べると大きく違う点があり、無灌漑の畑が多くなっています。その意味ではオアシス灌漑農業区からは外れていると言えます。
しかし、東北でも華北でも多く作られた雑穀であるアワやキビも中央アジア周辺が起源であることがわかってきました。メソポタミアあたりから東進してきたムギ作は灌漑農業から天水農業へと幅を広げ、中央アジア付近でアワとキビを拾って、そのまま東進を続け、中国に入ってムギ・アワ・キビ農業として展開してきます。さらにそれらにインドからの入ってきたモロコシとマメが加わったと考えられます。
このようにして、北方ムギ系の畑作と南方雑穀系の畑作の二つが黄土台地という畑作敵地に到って、高度な畑作を成熟させてきました。
なお、天水農業がサバンナや混交林地帯に広がるようになると、そのポテンシャルの大きさから、食料の大生産地になり、砂漠のオアシス地帯は農業の場としてはその地位を下げることになります。そして、砂漠はもっぱら交易路として機能する(森林地帯よりオアシスを連ねた砂漠を越えるほうが旅はしやすい)ようになり、3000年紀前になるとラクダ・キャラバンという能率のよい輸送手段も現れて、この地帯はますます交易に特化するようになります。
投稿者 yoriya : 2011年05月19日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/05/1257.html/trackback
コメント
投稿者 ろっぽん : 2011年11月10日 10:41
>鉄の伝来によりツタは簡単に切れるようになった。
ツタを切り、土器の隆線紋を消した「鉄」は、人間と自然の関係を逆転させ、自然支配を可能ならしめた道具(あるいは文化)の象徴とも言えそうですね。
投稿者 michelle : 2011年11月10日 16:12
みなさん、最後まで読んでいただきありがとうございます!
森の中で少しづつ着想した事柄をどうにかまとめてみたいと思い、ひとつのテキストにしてみました。
まだまだ足りない部分はあるとは思いますが前半の「ツタ考」を完成させました。後半は縄文土器と日本美術史の関係性を探求していきます。まだ資料を集めている段階ですので来年完成の予定です。
これからも縄文ブログの会員の方々や読者の方々同様に縄文について勉強していきます。やっぱり日本の国柄は縄文由来だと思うし、調べているとワクワクするんですよね。
ツタ考に対するコメントやツィートうれしかったです。これからの励みになります。
ろっぽんさんへ
「もののけ姫」を連想しますよね。自然対鉄(タタラ)がテーマになってますから。映画を分析していた「宮崎アニメの暗号」という新書がおもしろかったです。
michelleさんへ
どうやら鉄は重要なようです。調べるとキリがないので詳しい記述はしませんでしたが、「ツタが簡単に切れるようになった」ことだけを強調しました。
投稿者 firstoil : 2011年11月11日 22:45
あまり記事とは関係のないコメントで申し訳ないのですが
「もののけ姫」で東国に蝦夷の末裔がいて
戦国時代の初期頃、縄文時代のような暮らしをしてるような描き方をしてるのですが、まんざらフェクションでないようですね。
現在でも岩手秋田田沢地域の境の人々のことを和賀仙人と呼びます。
なんと江戸時代ころまでアイヌの藁葺き小屋ような小屋で生活してたそうです