184年黄巾の乱後、中国人口の9割が死滅し、華北の人種が入れ替わった |
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2008年01月06日
中国文明:戦国時代への起点②=春秋:遊牧部族による侵略の圧力
前回、中国文明:戦国時代への起点=西周王朝の衰退過程にて、周王朝の衰退過程を国の内部から分析しました。では、この時代の外圧は
「周室東遷の背後の北方民族の圧迫」古代中国 貝塚茂樹・伊藤道治著 講談社学術文庫より
春秋時代に、遊牧部族の侵入 😈 が本格的に始まったようです
byさーね
歴代王が苦戦した屈強 の匈奴 😈
😮 応援よろしくお願いします
古代中国 貝塚茂樹・伊藤道治著 講談社学術文庫の「周室東遷の背後の北方民族の圧迫」から、事象を取り上げたいと思います。
幽王は、犬戎(けんじゅう)によって殺されたが、西周の末期には、王朝の衰えに乗じて、北方から犬戎などが南下を強め、それがますます王室の弱体化と、人びとの東方への流出を促したのである。
北方の山地からくる戎族の南下は周室の東遷後も続き、○西の地は、のちに秦の勢いが盛んになるまでは、完全に異民族の手にゆだねられるとともに、この南下の傾向は、東方においてもあったと考えられる。紀元前706年には、北戎が斉に侵入したため、鄭(てい)の太子惚(コツ)がこれを救援して、北戎を破ったのも、また、前7世紀前半に、刑(ケイ)や衛が狄(テキ)とよぶ北の異民族にそれぞれの都から追い出されたのも、前8世紀以来の北方の民族の南下という大きな動きによるものであった。さらに、戎や狄の北方の、シベリアから蒙古の草原にかけて、新しい動きがはじまりつつあり、それが中国北部の戎や狄などとよばれる異民族に影響をあたえて南下させたのであろう。
西周の都から東方への移住は、東アジアにおける大きな動きの一環としておこったものであり、単なる幽王のときの王朝滅亡という一事件によるものではなかった。この事件よりもすでに早くから始まっていたのである。
王朝を滅ぼしたのも、さらに侵入を繰り返したのも、遊牧部族であるという点。(※この東アジアの大きな動きは、さらに調べてみようと思います。)
遊牧部族の特徴は?るいネットより抜粋してみたいと思います。
遊牧の発生までの生産様式の変遷とその特徴
>遊牧集団は『自立性の高い戦闘集団』である
(詳しく知りたい方は、投稿読んでみてください)
北方の戎や狄との戦いの記録は、実は、春秋時代だけではありません。殷の時代にもしばしば顔を出し、中国が統一された以降、漢の武帝の時代でさえ、匈奴征伐のために国家財政が破綻→統制経済へと追い込まれています。(この辺は、またの機会に)
中国古代は、常に遊牧部族との戦いの歴史がある。こう考えて間違いないと思います。
常に遊牧部族による侵略の圧力に晒され、周王朝滅亡と同時に、中国は戦国時代に突入。外圧から考えれば必然であったとも言えると思います。
しかし、なんかシリーズものになりそうな予感 です。まだまだ続きまーす 😮
投稿者 sawatan : 2008年01月06日 TweetList
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コメント
投稿者 案山子 : 2008年1月27日 15:35
自然の摂理の法をこえた行為がどれほど悲劇的な影響をもたらすか、非常にわかりやすい事例です。
アスワンハイダムに限らず、中国でも大河のダム建設が自然環境を破壊し、砂漠化したという話は耳にした事があります。
>思わぬ誤算で被害を蒙った政府はダイナマイト でダムを破壊しようとまでしますが、あまりに巨大で頑丈だったため、断念せざるを得なかったといいます。
笑えない笑い話です。
これほど巨大なダムを作る科学技術をもった人達が、なぜ事業を行うときにその影響を熟考しなかったんでしょう?
人間は私達が思っている以上に浅はかなものなのかもしれませんね。