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2007年07月29日

中国文明:周王朝~封建制度の発祥と実質価値である穀物を統合様式へ

今晩は 😮 さーねです
最近、まずは中国文明を一通り読んでみようと思い、通史の本を購入しました。
→「古代中国 原始・殷周・春秋戦国」(講談社学術文庫)という本です。まだまだ僕は素人ですから 😉
冒頭。僕自身の問題意識をちょっと… 😛
どうも、殷→周→春秋戦国というように、殷王朝や周王朝がクローズアップされますが、本を読み進めていくと、かなり、戦国時代の様相を呈しています。殷はたびたび周辺諸国に征伐に出向き、一方、殷王朝時代に周は存在しています。現実に、周王朝時代の周辺にも他勢力がひしめき合っています。よって、まさに 😈 掠奪 😈 の玉突き 👿 状態=様々な支配の構造がやはりそこにはあるんじゃないかなー? 🙄
こんな、状況認識を元に、今日は、周王朝の支配構造を調べてみました。
map-syuu.bmp
中国奇貨行くべしHPより
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今日は「古代中国 原始・殷周・春秋戦国 講談社学術文庫」からポイントを抜粋していきます 😉
まずは、殷が、自然神→最高神(帝)→祖先神と、神が人格化していった支配構造に対して、周は穀物神をその自らの王朝の起源におきました。

始祖后稷…の稷はきびのことで、新石器時代以来、殷代を通じて一般に栽培された穀物であり、当時の農耕技術では、もっとも栽培に適し、収穫率がよかったので、五穀(米・麦・あわ・豆・きび)のうちでも、とくに重視され、百穀の長とまでいわれたものである。
>ただここで重視すべきことは、山や水の神と思われるものを始祖においたのではなく、穀物神を始祖としたことである。

この時代、生きていく上での食の中でもより価値の高いモノを人格神化したのです。
それに対して、周王朝は中国では初となる封建制度を採用しています。ただし、同族封建のようです 🙄

>宣候の封建(青銅器の銘文より)
「○よ。宣の侯としよう。香料酒一ゆう(ゆうは青銅器を示す)、商から伝えられたれき一個、丹(あか)塗りの弓一張、丹塗りの矢百、黒塗りの弓十張、黒塗りの矢千を与えよう。土地を与える。その土地の川は三百余筋、その○は百二十、その邑(むら)は三十五、その○は百三十ある。また宣に住む王と同族の人びと十七集団を与える。鄭地の七豪を与える。その従者は千五十夫。宣の原住の庶人六百○六夫を与える。」

青銅器に記された銘文で、宣という土地の封建を諸侯に与えたことを記しています。人口や面積などもかなり詳細に押えていたようです。

>収奪のための土地・人民調査
ではなぜ、それほど詳細に現地の状況を把握する必要があるのか。それはいうまでもなく、農民から租税をとりたてるためのものである。
>周と同族の諸侯が五十余あったと伝えられている。それらの所在地はほとんど古代における主要農業生産地であった。
人民の統治については、もとの殷のときの慣習を認めたが、土地に関しては、周において従来から行われた方法をとり、自分たちにべんりな租税徴収をおこなったのである。
>封建制度の諸機能
軍事上・交通上の要衝を確保することであり、その二は、同族の人びとを大名とすることによって、独立の生活を維持させ、それによって王室に奉仕させることであった。

ここで、周王朝が当時持っていた状況認識を押えてみましょう 😮
殷は、周辺勢力に対する征伐に度々出向いたことが、甲骨文に示されています。強力な守護神信仰と武力を統合軸とした王朝です。少々強引な統合様式 という感じがします。農耕を基盤においていた周は、隆盛を誇っていた殷に従属するも、その祭政政治の強引さにかなり反感をもっていたものと思われます。
殷周革命後、周王朝は、殷のような強引な社会統合では王朝は存続できないと判断したのではないでしょうか 農耕を基盤にしていた部族ですから、このような意識に至ったのではないでしょうか では、別の形で支配するにはどうしたら良いか
そのシステムが同族による封建制度であったのです。
同族であるならば、下克上や裏切りの可能性も薄くなる。各諸侯に各地を統治させることによって、より緻密な支配が可能になる。中央の王朝は、各諸侯から納められる租税を待っていれば良い状態。王朝にとっては効率的でより支配しやすいと考えたのではないでしょうか
このような意識下で、周は殷を踏襲しながら、以下のような社会統合のシステムをつくりあげたのです。
殷の守護神信仰による統合様式
当時の第一価値である穀物+人格神=穀物神による祭祀

周の同族封建制度による穀物収奪=土地占有システム
面白いのは、統合する様式に、信仰+武力だけでなく、穀物という実質価値を統合様式に組み込んだところです。要は、武力に支えられた信仰だけでは、反発を生むだけ。実施価値を人々に感じさせる手法を、周は統合様式に組み込んだことがポイントではないかと思います。
ただ、周王朝は殷王朝より存続期間は短かった。そこが謎ですねー

投稿者 sawatan : 2007年07月29日 List  

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コメント

京都の「三十三間堂」というお堂があって、そこには膨大な数の仏像があります。
そこで解説を聞かせてもらったのですが、仏様には阿修羅や仁王、毘沙門天や弁天様などインドのヒンズー教起源のものがたくさんあり、仏教の体系に組み込んでいってできたということです。
支配するために信仰を統合していったのでしょうか。
また、北山には「岩屋」と呼ばれる洞穴に神社とお寺があってなんとなく融合しているのが面白いところです。

投稿者 tamura : 2007年8月18日 14:03

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