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2012年02月18日

シリーズ「日本と中国は次代で共働できるか?」11~宋代の経済力を支えた江南地方の稲作農耕民

 唐を揺るがせた安史の乱から200年、五代乱離のあとをうけて建国された宋(北宋)は、国内の武人勢力を抑えるために文治政治を進めた結果、軍事力での弱体化を招き、北方の遊牧国家に対し絶えず軍事的劣勢に置かれることになります。
  
北宋(図左)、南宋(図右)の支配領域と周辺国家の状況
 ※赤丸付近が江南地方(クリックで拡大)
その一方で、農業と経済の中心を江南へ移行させることで、国内の経済的な発展を遂げてます。さらに、華北を遊牧国家に奪われ江南に再興した南宋では、政治の中心も江南に移行することで、さらに産業面で著しい発展を遂げ、その後の王朝にも受け継がれる政治・社会・経済システムを作り上げ、文化の華を咲き誇りました。
では、なぜ北方遊牧国家の侵略圧力の中で、軍事力が弱かった宋が300年に亘り王朝を存続させることが出来たのでしょうか? また、なぜ江南地方は経済的な発展を成し遂げる基盤となりえたのでしょうか?それらを紐解いてみましょう。
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◆宋の置かれた外圧状況と適応戦略
○中央集権官僚国家の確立
宋は、これまでの遊牧民国家の支配体制:中央集権制を継承しつつ、さらに強固な体制を作り上げます。科挙が全面的に採用され、科挙の合格者は官僚として国に仕えます。宋では「殿試」と呼ばれる、皇帝直々に試験監督を行う最終試験を設け、あらゆる官僚を皇帝直属の配下とした徹底した中央集権制を確立します。
唐が安禄山の乱を典型とする節度使(辺境に置かれた傭兵軍団の司令官)の造反により衰退し、最後は五代十国と呼ばれる国家分裂状況の中で滅亡したことを省みて、節度使の権力の削減につとめ、その結果、節度使は単なる地方の単なる名誉職にすぎなくなります。代わって、官僚を地方の重要な地位に送り込み、武人官僚を排除した文官官僚支配を強化します。
○『平和を金で買う』という対外戦略
節度使解体の一方、禁軍を強化します。禁軍とは、皇帝直属軍(近衛軍)で、枢密院の管轄下にあった軍隊です。禁軍のなかで辺境の防備にあたるものを屯駐禁軍・駐泊禁軍などといいましたが、その兵力は民兵の募集したもので、数は増えましたがが外敵に対抗できるものではなかったようです。では、北方の遊牧国家からの侵略圧力にどう対応したのか?その戦略とは『平和を金で買う』というものでした。

【せん淵の盟】
1004年に北宋と遼の間にて結ばれた盟約。国境の現状維持、不戦、宋が遼を弟とすること、宋から遼に対して年間絹20万匹・銀10万両を送ることなどが決められた。
【慶暦の和約】
1044年に西夏と北宋の間で結ばれた和約。絹13万匹・銀5万両・茶2万斤の財貨と引き換えに西夏が宋に臣礼を取ることで和約が成った。
【紹興の和議】
金と南宋の間の対立を終結させた条約。南宋は淮河以北の旧領(かつての首都開封を含む)の放棄し、1164年まで毎年、金25万両と絹25万匹を金に貢げることとなった。

これらの和約は、宋にとって平和の代償として考えれば安いものでした。宋の財政規模からすれば問題となるほどの負担ではなかったのです。それどころか、国内での戦争を回避するこで、国初以降の経済成長は続き、国家の収入は年ごとに増加の一途をたどりました。
他方、北方遊牧国家にとっては宋との和約はメリットの大きなものでした。いくら宋の軍事力が弱いといっても、戦争になればそれなりの被害が出ることは避けられません。宋は兵数の上では強大な禁軍を保持することで、自分たちに都合のよい和約を引き出したとも言えそうです。
これらの和約は、一方的に宋の不利益になったわけではなく、相手国で生産が困難な絹織物や陶磁器・茶などを愛好する習慣が当地の社会全体に広がった結果、宋からの輸入量が激増して、贈った財貨を上回る財貨が宋側に還流することになり、結果的には宋の経済力の強化・税収の増大に繋がったとみる見方もできます。まさに商人魂、商業国家の本領発揮です。
○貨幣経済を浸透させた経済政策
このように、膨大な軍事費を支え、一方で経済成長を成し遂げた要因の一つに宋朝が実施した財政政策があげられます。北宋の宰相:王安石の新法を見てみます。

【青苗法】
貧農の中には籾種さえ食い尽くして田植えの出来ない者がおり、彼らは地主から高利で銭を借りてその返済に苦しんでいた。 そのような農民に穀物や銭を低利で貸し付け収穫時に返済させ、大地主の高利に苦しんでいた貧農を救済しようとする政策。
【均輸法】
均輸官を各地に置き、その地の特産物を輸送させ、それを不足地に転売する法で、地域の物価を平均化させるとともに、その差額が政府の収入となった。この法は大商人の利益を奪うものとして彼らの激しい反対を受けた。
【市易法】
大商人の営利独占・小商人の抑圧などを排し、小商人の商品が売れないときは政府がこれを買い上げ、またはその商品を抵当にして低利で融資を行い、小商人を保護し、商業の振興をはかった政策。
【募役法】
徴税・治安維持などの地方の労役が上・中層農民にとって大きな負担となっていたので、労役を免ずる代わりに免役銭を徴収し、一方ではどんなに苦しい仕事でも働いて収入を得ないと生活できない貧しい人々の中から希望者を募り、雇銭を支給し労役に充てた政策。

これらの新法は、中小農民や中小商工業者を保護・育成すると同時に、彼ら庶民にも貨幣経済を浸透させる目的を持っていました。特に青苗法は、農村に貨幣が行き渡る契機になったと言われ、農民は借金により端境期を乗り切ると収穫物を売りさばき借金を返済することになっていました。新法の反対派からは、「不要な贅沢品を買うために借金させている」と批判されましたが、それこそが経済活性化をもくろむ王安石の意図そのものであり、貨幣を媒介に、生産力の上昇と市場の拡大を連動させた政策だったのです。
王安石の新法はかなりの成果を上げ、財政や治安は好転しましたが、旧法党(反対派)と新法党の「党争(官僚間の権力争い)」が激しくなる中で、王安石はついに辞職に追い込まれています。これも中国官僚国家らしいところです。
◆著しい経済発展と庶民文化を開花させた江南地方の人々
このような国家支配体制のもと、外国との戦争による国内の荒廃もなく、経済は安定的に発達します。
○江南の農業生産力の向上を担った稲作農耕民とは?
もともと江南の自然環境は稲作農業に適した地域でしたが、国家プロジェクトとして大規模な開発が行われ、大きく生産性が上昇します。江南地方では湿地を堤で囲んだ「う田」と呼ばれる水利田が開発され、湿地や傾斜地の水田に合う早稲の占城米(チャンバイまい)がベトナムから導入されます。地方によっては米の二期作や米・麦の二毛作が行われ、商品作物の栽培が普及し、茶の生産も広がりました。
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杭州の茶畑
(写真はコチラから)
 
この農業生産力の上昇は、大規模な土木事業や技術革新によるところが大きいのは確かですが、その農業を担った人びとについても見逃せません。その人々は誰だったのでしょうか?
華北では麦作農業が主体なので、華北の農民を移民させても、いきなり稲作を始めることは困難です。急速な発展を遂げるには稲作の経験者が必要で、そこで目を付けたのが江南以南の稲作農耕部族でした。それまで「蛮族」と呼ばれた彼らを国家に取り込むことで、稲作農耕の技術蓄積を持つ彼らが、江南の水田稲作農業の主体になったのではないでしょうか。
長江以南の稲作農耕民が、宋に取り込まれたという記録はないようですが、以下の理由でその可能性が大きいと思われます。北宋の人口は、建国当初は 5千万人、それが末期には1億人近くまで増加しています。(リンク)約150年間で倍増です。これは宋の人々の人口増だけでも説明は可能ですがやはり無理があります。それまで支配外だった長江以南の農耕部族を国家に取り込んだと考えた方が妥当だと思われます。
遊牧民の支配体制は、その土地の集団や社会制度は温存したまま支配するという二重支配がその特徴ですが、宋も同様に支配したと思われます。それゆえ、稲作農耕民の村落共同体はそのまま残り共同作業が不可欠な水田稲作において、彼らの高い共同性や勤勉性が発揮され、それにより高い生産力を実現したのではないでしょうか。堤の補修作業などに村の共同作業として取り組んでいたようです。
この稲作農耕民の出自ははっきりしませんが、おそらく、古くは長江文明を担った人々、そして日本に稲作を伝えた呉・越の人々の末裔である可能性が大きいと思われます。稲作農耕民の共同性や勤勉性は、日本も中国も同様なのでしょう。
○貨幣流通を媒介に手工業や商業が発達
宋朝の中央集権的な財政運営により、全国から税を集めて巨額の軍事支出することで、全国的な物資の流通が盛んになり商品流通が大規模に拡大していきます。
手工業も発達し、繊維製品、漆器、紙をはじめ、青磁・白磁に代表される陶磁器の生産も各地に広がります。これら手工業品や商品作物の取引をするために、流通経済が全国的に発展します。商業の発展は都市の繁栄をうながします。北宋の首都・開封の城壁の内外の繁華街では、茶館・酒楼などの飲食店や演劇場が夜間まで営業を行なっていました。

「清明上河図」に描かれた開封の賑わい(写真はコチラから)
府州城や県城などの地方都市も人口が増え、都市が拡大します。これに加え、地方の交通や地場産業の要地には、「鎮」と呼ばれる中小商業都市が数多く出現しました。さらに日用品などを扱う村の市から発展した「草子」が現れ、以後の中国の農村風景として一般化します。
この商業の発展を媒介したのが貨幣経済の浸透です。農民たちも貨幣経済の網の目に絡め取られていきます。自分たちが消費する以上のものを、売り出すことを最初から目的に生産する。あるいは、自分たちの生活必需品を外部から購入する。それも村内で済ますのではなく、より広域的に、それを専門とする商人を介して行われるようになる。こうして、市場が拡大していったのだと思われます。
宋銭(銅銭)が大量鋳造され、国内外に広く流通したばかりか、禁令を犯して海外にまで流出し、取引額が大きくなると、高額貨幣として銀が使用され、ついに紙幣が登場しています。また、これまでのオアシス、草原の陸路交易が北方遊牧国家に押えられることで、海洋貿易へ進出し東アジア交易圏を形成しています。日本とは、国家間の交易は少なかったようですが、民間交易が活発に行われました。
  
○庶民文化の開花
唐の文化が国際的で異国情緒にあふれていたのに対して、宋の文化は中国固有の伝統的な民族文化に根付いた中国的なものでした。また、唐の貴族文化とは異なり、新しい支配層である地主、官僚などの士大夫階級を中心に、学問・思想・文学・芸術などで形式美にとらわれない文体の自由な詩や戯曲がつくられ、小説も書かれるようになります。こうした宋代の文化の発達は士大夫階級だけでなく、都市の経済的発展により登場してきた新興の庶民階級にも波及し、文芸や工芸の分野で新たに庶民文化が栄えます。
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左:山水画「早春図」(写真はコチラから)
中:庭園「太湖石の庭」(写真はコチラから)
右:磁器「「油滴天目茶碗」(写真はコチラから)
このような山水画、庭園、磁器などには、日本文化に通じるものを感じます。これらは日宋貿易を通じて日本にも流入し影響を与えています。江南の稲作農耕民社会を取り込むことで、その共同性や本源性が文化面にも現れたのかも知れません。
◆まとめ
○なぜ、北方遊牧国家の侵略圧力の中で、軍事力が弱かった宋が300年に亘り王朝を存続させることが出来たのか?
中央集権官僚国家・市場国家だったという点では、(既に漢化していたとはいえ)宋は、それまでの遊牧民の作った国家の流れを汲む国家でした。しかし、大きく異なっていたのが、それまで王朝のような軍事力主体の対外政策から、経済力主体の体外政策へと転換することで、北方遊牧国家の侵略を回避したことです。
それを可能にした要因は、江南地方の開発に伴う農業生産力の上昇であり、さらに流通網の整備や貨幣経済の浸透を媒介に、市場の活性化→経済力の上昇まで直結させる「経済力第一」の国内政策をとったことです。また、戦争回避により国内が安定化することで、より経済力の上昇するという好循環も生まれました。平和時の経済的な発展という点では、日本の江戸時代に似た状況だったのも知れません。
対外政策の主体を経済力へと転換した宋は、西洋に先駆けていち早く近世商業国家へ転換したとも言えそうですが、後にモンゴル帝国という強大な武力国家の前には為す術もなく滅亡してしまいます。宋のこの政策は、まだ武力が制覇力だった時代には時期尚早だったのかも知れません。
○なぜ江南地方は経済的な発展を成し遂げる基盤となりえたのか?
江南地方の開発はすでに隋・唐の時代から始まっていましたが、宋代に入りさらに開発が進み、著しい農業生産力の上昇を実現しました。
もともと潜在的に農業生産性が高かった江南地方が国家プロジェクトとして大々的に開発が行われたことと、そこでの生産の主力を担った人びとは、もともと江南地方で生活していた稲作農耕民であり、彼らの共同性や勤勉性が発揮されたことが農業生産力の上昇の大きな要因だったと思われます。
農業生産力の上昇→経済力の上昇に伴い、江南地方は文化面においてもその重要性が増していきました。次第に江南地方から輩出される人材が増え、多くの官僚や学者が活躍するようになっています。先程ふれた新法の「王安石」も、朱子学の「朱熹」も江南地方の出身でした。このように、農業生産ばかりでなく、政治・経済や思想な社会全般において、江南地方の人びとの影響力が増していったのです。
もともと、彼らの多くは国家支配の外の蛮族と呼ばれ共同体を温存していた稲作農耕民と思われる人びとです。宋は、遊牧国家の支配体制(他集団を服従させて支配)を継承したため、彼ら稲作農耕民を共同体を残存したまま中国に取り込まんだと思われます。
宋代とは、それまでの漢族・(漢化した)遊牧民中心の華北文化に、南方の稲作農耕民の文化が深く浸透した時代だったと言えるかも知れません。



さて、「日本と中国は次代で共働できるか?」という今回のシリーズで注目したいのは、この宋代の江南地方の稲作農耕民の存在であり、その中国国家に対する影響です。日本に稲作を伝えた末裔とも考えられる彼らとならば、次代で共働できる可能性がありそうです。
しかし、残念ながら、現在はこの地域には非漢民族に分類される人々は既にいません。では、かれらはどうなったのでしょうか?
歴代王朝がこうした人々に対して、討伐を行い、この地域にいた稲作農耕民族が消滅したことも考えられますが、おそらくそうではなく、彼らは次第に漢化し漢民族に溶け込み、現在の漢民族の一つの原形になったと考えるのが妥当だと思われます。
中国の方言分布(写真はコチラから)
中国南部は、中国の方言分布としては、主流の官話(北方話)とは異なる方言分布を形成しています。中国全土というわけには行かないかも知れませんが、少なくとも中国南部は共同体気質が残り続けている可能性はあるのではないでしょうか。彼らが日本と中国を繋げる糸口になるのかもしれません。
《参考書籍》
 『五代と宋の興亡』周藤吉之、中島敏著(講談社学術文庫)
 『中国の歴史07 中国思想と宗教の奔流』中島毅著(講談社)
 『歴史リブレット 中国の中の諸民族』川本芳昭著(山川出版社)

投稿者 sai-yuki : 2012年02月18日 List  

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コメント

縄文時代の漆・土器と現代の工芸・精密機器は通じ合っていますよね。モノをただ単にモノだとは思わない突き抜けた感性によって成立するモノづくりがあるように思います。
「黒と赤のコントラストによる神秘性」私もずっと気になっていることです。ここに縄文哲学が色彩表現となって表れていると思います。「生と死、そして再生」まさにその通りだと思います!

投稿者 firstoil : 2012年11月28日 23:11

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