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2014年10月21日

仏教に未知収束の志を見る~第6回 私権社会の規範に変質した儒教

第6回は孔子に端を発する儒家の理想が、秦王朝以降どのように変質していくかを見て行きたいと思います。

朱熹

孔子によって始まった儒家の理想とは、「仁」の世界を実現することであり、それは、政治的上位者が身をもって実行することによって可能となります。さらに社会のすべての人々が情に厚く、心優しく、共に「仁」に向かえば、天下国家の治事は容易に達成できると考えました。

儒教の教えを学問に昇華させた後の朱子学では、絶対の「忠」と「孝」を説きます。つまり、「まずは下の者が上司に徳をもって仕えろ」というものに変化していきます。

朱子学は、学問の系譜で言うと孔子の儒家の発展版といえますが、ほぼ原型をとどめていません。孔子が教えた儒家は、「仁」というのを最上の徳としているのと比較して、朱子学では「忠・孝」という徳が最重要となります。「仁」は天下国家のことを追求していますが、「忠」と「孝」となると、単に一集団のみを対象にしており、孔子が追求した「仁」という考え方が限りなく後退していったのです。

このように朱子学は、儒家の原型をほぼとどめていないものに変貌していますが、すでに秦時代から前漢時代にこの変貌が始まっています。前漢時代になぜこのような変貌をしていかなければならなかったか、その過程を見ていきたいと思います。

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参考図書(儒教とは何か)より

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【儒教を全面否定した中国最初の私権国家=秦】

周王朝は、封建制を敷く国家であり、諸侯の各独立領土の上に王を戴いた諸侯連合体であった。東周時代は、二期に分かれて春秋時代(前770年~前403年)と戦国時代(前403年~前221年)と呼ばれているが、この春秋時代に孔子が生まれている。この時代、周王朝の権威は衰え、多数の封建諸侯が覇を競い、少数の国家に統合されていく過程であった。儒教について言えば、諸侯からは未だ評価されず、あまり用いられていない。

秦時代(前221年~202年)の始皇帝は、周王朝の封建制を壊して、共同体の規律で治める(徳治)ではなく法家の理念を重用して皇帝の独裁と中央集権体制の強化に力を注いだ。そのため「焚書坑儒」と呼ばれる儒家に対する弾圧を行った。

秦王朝は周王朝組織を否定するに急であった。そのため周王朝時代の意識を引きずっていた諸共同体は、共同体の規律(徳治)を脅かす法家政治(法治)に対して抵抗した。その結果、始皇帝の死後、全国的に反乱が相い続き、たった20年ほどで、あっけなく秦王朝は崩壊した。中国最初の私権国家=秦はこうして共同体(=儒家)をないがしろにしたが故に短命に終わったのだ。

【中小、共同体を温存させた国家=漢】

代わって登場したのが前漢王朝である。当然、秦王朝を倒した諸共同体の要求の上に立った国家である。その象徴が、有名な「法三章」である。秦王朝時代の厳しく細やかな法治を廃し、「盗るな、傷つけるな、殺すな」、この三章以外の法律はなくしたという。ところが「法三章」にしたものの、たちまち治安が保てなくなり、この「法三章」は、キャッチフレーズに終わる。宰相の蕭河(しょうか)は、秦王朝時代の法を基にして、九章からなるかなり広範な律(刑法)「九章律」を作った。いずれにしても、漢王朝は、秦王朝が作った中央集権的統一国家を、ともかく受け継いだ。

もっとも、共同体といっても、ピンからキリまである。諸侯・王のような、小独立国家のような大共同体、一門一党を率いる名門・土豪・大地主のような中共同体、同性一族の団体を誇る家族のような小共同体がある。一般に、中央集権国家の歴史とは、これらの諸共同体との戦いと妥協との歴史である。漢の武帝は「推恩の令」なるものを出し、大共同体をつぶし、地方における重要な高官は中央政府の派遣とした。ところが中共同体以下は、そのまま生かしておくのが賢明と考えた。それで中共同体ならびにそれ以下の諸共同体は、共同体の規律すなわち道徳律による徳治中心であった。

漢は秦の国つくりの失敗から学んでいました。過度な中央集権は広く他民族が集結する中国には則しませんでした。反逆の芽となる大共同体は潰しつつ、中小共同体を生かすというのが漢が取った政治手法でした。秦の時代には否定された儒教も既に広域に広がっており、これを使わない手はないとして、儒教を国家体制の中心に敷く事を考えたのです。そして使われたのが新たな儒教、朱子学の始まりなのです。董仲舒が、漢王室による統治に役立つように、孔子の儒学を都合良く解釈したのです。その“都合よく”という部分が儒教の最も骨格となる「仁」を表から消し、「忠」「孝」による得を求めたという部分です。それはまさに地方の諸侯が中央の官僚に忠実に従い、治めることと矛盾しませんでした。儒教はこうして世の為、人の為の教えから国家の為、官僚の為の仕える規範に転落していったのです。

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【科挙は儒教を題材にした試験】

儒教が為政者の為、私権社会の秩序維持の為に使われたのは「忠、孝」の認識だけではありません。隋、唐の時代には科挙が官僚登用の試験として使われますが、これが何より儒学の本質部分が変化した事を示しています。科挙とは膨大な書物の記憶力を競う試験制度ですが、これに儒教の教えが使われたという事は、官僚に登用する際には忠や孝といった規範を徹底的に刷り込む事で反分子を排除し、国家や朝廷を中心とした磐石な中央体制を構築しようとしたのです。

儒教は宋学を経て朱子学として学問化し、その朱子学の権威の元、科挙はその後、国家や朝廷が変われど中国の中心的制度として清代まで続きます。

これが儒教における孔子の志が跡形もなく変遷したその後の儒教の姿なのです。

【まとめ】

今回は儒教のその後を取り上げましたが、これは儒教に限った話ではありません。

儒教は共同体の真っ只中に登場した私権社会を憂い、孔子が立てた社会への視座、私権社会への楔でした。しかしそれも私権社会を一巡する中で改変され、良い処取りがなされ、当初の志は失われていきます。

仏教も同様です。釈迦が起した未知収束として小乗仏教はやがて国家治安の為の思想、大衆支配の為の思想である、大乗仏教に跡形もなく変化します。庶民に対しては葬式や身近な人間関係を定めるに過ぎないものになっていきました。

本源社会から私権社会への入り口に未知収束として起きたこれらの思想がその後為政者によって利用され、変化していく事もまた私権社会の在りし構造なのかもしれません。

投稿者 tanog : 2014年10月21日 List  

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