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2011年10月29日

シリーズ「日本と中国は次代で共働できるか?2」~中国の市場国家の起源とは?

 前回は、【支配・戦争】という視点で、国家形成前~夏・殷・周時代までの歴史を俯瞰しました。寒冷乾燥化を契機に黄河流域に南下した遊牧民が農耕民を支配・服属させ国家を形成したというものでした。今回は【市場】という視点から、中国という国がどのように出来上がったのか?を見てみたいと思います。
 さて、市場ですが、国家形成前にはまだその姿を表してはいません。そこで、古来から人々が他集団との間で行なってきた、様々な「モノ」や「コト」のやり取り=集団間交流に焦点を当ててみることにします。
 集団間交流には、古くは採集部族や狩猟部族が行なっていた「贈与」があります。人類は洞窟を出て地上に進出し、集団の拡大→分化を繰り返し、同類闘争の潜在的な緊張圧力が働き始める中、「贈与」=互いに贈物etc.を通じて友好関係の構築に努め、闘争を回避していました。一方、後に登場した遊牧部族は、それとは違った地域間交流をしていました。遊牧という生業ゆえに登場した「交換」「交易」がそれです。
<黄土高原を走る黄河>写真はコチラから
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 黄河流域で農耕が始まったころ、母権の農耕民は平和友好関係を維持するため、近隣集団に対して贈与を送っていたのだと思われます。そこに、交換・交易を行う草原の父権の遊牧民が草原から南下、農耕民と接触し古代国家形成へと向かって時代が大きく動いていくことになります。そこには、贈与・交換・交易という集団間交流が密接に関わっています。
では、この集団間の「モノ」「コト」のやり取りはどのようなもので、どのように変化していったのでしょうか? また、それは市場へと繋がるものだったのでしょうか?この集団間交流を切り口に、黄河流域を中心に国家形成前から国家形成へと移り変わった時代に迫ります。
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■遊牧民はその生業ゆえに交易民でもあった
 華北で栽培化されたアワ・キビの栽培が確認されているものは最も古いもので約6千年前に遡ります。その頃、トルコ族、モンゴル族、ツングース族はモンゴル高原で、チベット族はチベット高原で、それぞれ遊牧を営んでいたと考えられます。
 5500年~5000年前ごろに寒冷化・乾燥化が進んで草原の道の生産力が下がると、草原の遊牧民は黄河流域に南下し、遊牧民と農耕民が接触し食料交換する機会が増加していきます。
<モンゴル高原>写真はコチラから
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 もともと、長距離を移動する遊牧は、極端な余剰生産を持てません。しかも、夏季の大干魃や野火の発生で、牧草地が壊滅することもあります。つまり、遊牧は 食糧不足の危険と恐怖が絶えずつきまとうものだったのです。食糧不足に陥った遊牧民は、定住農耕民との交換によって食料を手にしたました。遊牧民にとって定住農耕民との交換は不可欠なものだったのです。
交換(またはそれが発展した交易)では、損得・利益という意識が登場します。元々食えないから交易を始めたわけですから、そこには部族の命運がかかっています。こうして部族全体が利益収束し、利益拡大(蓄積)が部族の統合軸となってゆきます。交換は損得のやり取りであり、父系転換→利益第一に染まっていることも相まって、著しく他者に対する攻撃性を磨いてゆく=高めていきます。こうして利益第一と攻撃性故に、他部族を騙してもよいということになり、遊牧民は騙しと交渉術に長けてゆくようになります。利益第一となった彼らにとっては財が獲られないかが一番の心配事となり、利益第一が故に警戒心を膨らませた彼らは武装してゆくことになります。このように、遊牧民は(騙しに長けた)交易民でもあり、同時に武装集団でもあったのです。
 さらに寒冷化・乾燥化が進むと、ついに遊牧民は、農耕民を征服・支配するという最も効果的な収奪方法を取ることになったのです。そして遊牧民に支配された農耕社会は、大きく変化していきます。
■国家形成前の地域間交流~龍山文化(紀元前三千年期)
この時代、各地域社会が複雑化、階層化する過程にあった。次第に各地域で集団間の緊張が高まり城郭を築いて防衛する集落も出現する。規模の大きい中心的な集落の周りを規模がやや小さく衛星的な集落を囲むといった集落の階層化が進んだ。同時に弓矢を主とする集団戦の武器が多くなり、暴力的に殺害された犠牲者も急増していった。
<山東龍山文化 玉琮>写真はコチラから
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 個々の地域は個別の社会発展を示しつつも、次第に固有の地域圏を超えた地域間の交流が始まっていきました。山東から湖北にかけての豆(高杯)形土器は中国北西部に広がり、墓にブタの下顎骨(かがくこつ)を副葬する風習も同じように山東から長江中流域や黄河上流域に拡散していっています。やや遅れて良渚文化の玉琮・玉壁や山東龍山文化の玉璋・玉斧・玉刀などが黄河中流域を経て黄河上流域にまで及んでいます。反対に黄土高原地帯の鬲形土器やヒツジの飼養、ト骨の風習などは河南から山東異まで広がっていきました。
ここで注目されるのが、やり取りされる貴重品が、集団内や集団間の序列化の流れと連動したものであったという点です。それらの貴重品は、もっぱら墓の副葬品としてのみ使用されていますが、これらのが納められる墓は、副葬品が比較的多い裕福な墓にのみ限定されていました。これはそれ以前の社会にはみ見られなかった現象です。
おそらく、玉器に代表される貴重品などの特殊なものを持つことは、他地域の人びととの交易の成果を示すものであり、そこのこと自体が集団内での評価を勝ち得るものだったのだと思います。ここには、遊牧民が持ち込んだ私権意識と、私権獲得のための交換・交易の影響を見ることができます。これは、それ以前の贈与の関係を巧みに利用して、自分たちに都合の良い交換・交易へと転換したものたったのかも知れません。
 このように、広い範囲で集団間交流が活発になりましたが、それはけっして一極集中的な交流ではなく、むしろ各地の自立した諸文化が、それぞれ独自に結びついた、中心を持たない網の目型の交流が展開されていました。
この交流網は、高い文化レベルに達していた良渚文化・山東龍山文化・山西龍山文化(陶寺文化)などが 4000年目頃までに相次いで衰退し、地域間の交流は一時的に崩壊したようです。やがて王朝の成立とともに黄河中流域から放射線に文化が発信されることになります。その王朝が中国最古の王朝、夏王朝でした。
■古代国家の誕生と交易ネットワークの形成~夏王朝(紀元前二千年期前半)
各地域間の緊張圧力が増す中、緊張を緩和するため連合体の盟主として有力な部族が選ばれて「王朝」が誕生する。各国の部族の長は「諸侯」として王朝を盟主と仰ぐようになった。それが夏王朝だった。それまで各地域で独自におこなっていた地域間交流は一つのネットワークに統合され、夏王朝はその中心に位置した。
<夏王朝の支配領域>参考書籍(1)より

 夏王朝は周辺の諸地域と密接に交易していただけでなく、それを跳び越えた遠隔地とも広範な交易を持っていました。夏王朝から遠隔地に広がったものとしては、飲酒用の土器や礼儀用の大型有刀玉器など非日常的な礼儀器が主でした。受容した地域ごとに種類や形がばらばらであるため、夏人が移住したとか、夏王朝から積極的かつ体系的な情報の発信があったのではなく、それぞれの地域で主体的かつ選択的に受容されたものだったと考えられます。そのため二里頭文化の要素は、それぞれの地域文化において副次的な位置を占めるだけだったようです。

<タカラガイ>写真はコチラから

反対に遠隔地から夏王朝にもたらされたものに海南産のタカラガイがあります。これは王朝の貴族にとって威信財となりうる材料で、支配者がその交易ネットワークを把握していたものと考えられます。ただし、この交易ネットワークは夏王朝を中とする放射型の交易でしたが、その中心周辺関係は、支配と従属という強制力を背景としたものではなかったようです。交易の“騙し”という本質を考えると、言葉巧みに相手を騙し貴重なものを贈与するように仕向ける、というものだったたのかも知れません。
このような地域間交流は、龍山文化にさかのぼりますが、夏王朝では王朝の支配者たちがその遠隔地交易を掌握していて、それが国家支配体制(私権序列体制)と密接に連動してたことが、龍山文化との大きな違いだといえます。
<二里頭遺跡の宮殿>参考書籍(1)より

 また、夏王朝は国家支配体制維持のため、各地域の集団統合様式(祖霊祭祀や礼制など)を吸収し、それらを統合し新たな社会様式の形成にも力を入れています。王権を中心とした序列制度を維持するための規範としての「儀礼」、王権の正当性やその権力を示す祖先祭儀や犠牲祭祀などの「祭祀」を制度として確立することで広域的に諸集団を統合しました。中国文明を特徴付ける宮廷儀礼を制度化したのが夏王朝であり、その基盤となったのが他地域との交易だったのです。

■交易ネットワークの発展~殷王朝(紀元前二千年期後半)
殷王朝は、武力で夏王朝を滅ぼし、その中心地であった伊河・洛河地域に都である偃師商城(えんししょうじょう)を築いた。同じ時期には殷の南進の拠点であった鄭州商城(ていしゅうしょうじょう)を築き、さらにそれらより規模が小さい城郭が各地に築いた。夏王朝の支配領域を基盤に、より支配領域を拡大した。
<殷王朝(初期)の支配領域>参考書籍(1)より

 殷王朝の支配領域では、機内(直接支配領域)では夏王朝における政治・経済的な拠点に城郭を配置し、畿外(間接支配領域)では、資源を集散する拠点として前線基地である城郭を建設し支配下に置いきました。各地域から王への資源と物資の貢献し、代わりに序列を示すものとして青銅彝器を王が再分配するという、王への一元的な貢納システムが確立しました。

<殷王朝(初期)の支配領域>参考書籍(1)より

一方、畿外の周りの武力支配が及ばない周辺領域とは交易ネットワークが形成されます。これらの領域では殷王朝の支配関係とは一線を画したもので、緩やかな資源と製品の交換がなされました。それらの地域は朝貢関係にあるのではなく、自立した地域間交流の関係で、夏王朝での交易(表向きは贈与?)の延長にあるようなもものだったようです。
 また、殷王朝は、夏王朝の宮廷儀礼を継承しつつ、国家の支配体制をいっそう確立していきます。それは青銅彝器に見られる「礼制」の確立であり、祖先祭祀のための盛んな動物犠牲や人間犠牲などの頻繁な「祭祀」でした。そして王権が神を代行する「卜占」という行為と、その結果を記録するための「文字」も出現しています。このような「祭祀」「儀礼」による序列制度の高度化、「卜占」による王権の正統性の強化により。社会秩序と集団組織を維持した国家が殷王朝でした。朝貢システムである交易ネットワークは、同時に情報収集・発信システムとしても機能していたのです。

■古代国家形成段階では市場はなかった?
 集団間交流を切り口に、国家形成前~夏王朝、殷王朝に移り変わる時代を見てきました。夏王朝や殷王朝での交易は、もっぱら支配階級自らが行なっていました。それは、「市場」というよりも、むしろ「朝貢システム(の原型)」という方が近いように思われます。ただし、このような交易の本質を“騙し”とするならば、それは「市場」と同根であり、このあとの時代に登場する「市場」の胚芽とも言えるのかも知れません。
 中国の古代国家は、「(市場の萌芽として)交易」+「武力」を背景に序列支配体制を確立することで国家を統合しました。これは、交換取引の場=「市場」が「国家」による武力闘争(およびその帰結たる身分制度による私権拡大の封鎖)からの「抜け道」として登場した西洋と大きく異なるところです。
では、中国では市場は、いつどのよに登場するのでしょうか?
このシリーズを通じて明らかにしていきたいと考えています。
参考書籍
 (1) 『中国の歴史01 神話から歴史へ』宮本一夫著
 (2) 『中国文明 農業と礼制の考古学』岡村秀典著
 (3) 『夏王朝 中国文明の原像』岡村秀典著

投稿者 sai-yuki : 2011年10月29日 List  

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司馬遼太郎氏もまた日本語の母音発音を縄文人の痕跡と書いています。
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いまの私どもが話している日本語の言語発声の生理は、その時代から遺伝を継承しているだろうと私は推測しています。
ご存知のように、日本語は母音の多い言葉であります。そして単語の最後は母音がきます。このことに関するかぎり、私どもの日本語は、ポリネシア人やインドネシア人とおなじように、太平洋民族の言語の生理に似ています。ほとんど母音だけで、一つの言語を、たとえばハワイの人達は話します。たとえば・・・
こういう言語の生理は、遠い縄文時代から相続しているように思われます。
これにたいして、となりの国の朝鮮語は、じつに子音の活動の活発な言葉で・・・朝鮮語では、単語の最後に子音がくることが多いのです。これは日本人にとって、生理的に苦痛です。・・・要するに、日本語という母音の多用という言語生理は、私どもに残されている縄文人の痕跡だと思います。

投稿者 siba : 2012年7月14日 23:34

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