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2008年05月11日

中国文明:遊牧部族が侵入したのはなんで?

先日、遊牧民族の動向を調べましたが、逆に、彼らはなんで度々中国へ侵入したのか?単純に、遊牧部族の戦闘性だけを理由付けにしても何か片手落ちな気がしました

な の で

彼らはどんな外圧に晒されていたのか?調べてみました。
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遊牧の生活はとても厳しい~
byさーね
今日は、楽しい世界史~遊牧生活はキビシイを参考にさせて頂きました
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氏族によって、季節ごとに移動するルートや放牧地は、厳しく定められている。
農耕と異なり世代による富の積み上げがほとんどない。財産といえば、馬・牛・羊・山羊・らくだなどの家畜が主
自然の災害にもろく、いつ「一から出直し」になるかもしれない、という危険にさらされている。
牧畜に次いで遊牧民にとって重要なものは交易であった。
遊牧民は、厳しい自然とのたたかいや、他族との争いに備える必要から強力な結束力をつちかった。
その集団的な力と騎馬による機動性を背景にして、しだいに強力な軍事力をもつようになった。
農耕社会との平和的な関係がやぶれたり、厳しい気候や疫病によって家畜が大量に死んだりすると、その強力な軍事力をもって農耕社会に侵入して、略奪を行なった。
19世紀ごろ、カザフ諸族のなかでもっとも遠距離を移動したアダイ部族は、年間少なくとも2500kmを移動したという。宿営のたびにラクダから荷物をおろしテントを組み立て出発のときにはテントを解体し、再び荷物をラクダに積んだ。この積みおろしは、年間60~120回繰り返された。(1年を通じて3日に1回は移動した

遊牧部族がどのように戦闘集団に変わっていったか?予測がつくと思います。

そもそも、ペンペン草しか生えないくらいの乾燥した草原。
交換できる財は「家畜」しかない。移動⇔宿営の繰り返しの毎日。

生きていく上での命綱は、
『家畜から「ミルク」「肉類」⇔<交換>⇔穀物』

農作物が不作で交換してもらえないor家畜が死んでしまい交換できない

武力による略奪闘争へ=遊牧部族の戦闘集団化

遊牧部族 VS 農耕部族

初めは、農耕部族と贈与による交換関係にあったと思われます。しかし、一度、略奪行為が発生してしまえば、部族間の緊張圧力が高まり、その後、遊牧民族は戦闘集団へと姿を変えた。
一方、彼ら遊牧部族は、このような外圧に晒された背景があります。
先の記事:中国古代母系集団は、父系軍事集団(遊牧由来)に服属することで吸収・解体されていったのではないか?

●紀元前4000年~3000年
…(略)…黄河流域と長江流域で防御性の高い城壁が出現する。…(略)…※紅山文化は遊牧と農業の混交した文化

紀元前4000年~3000年略奪が始まった時代。
ちょうどこの時、気候変動があったのです。

BC4000年:北緯35度以南の乾燥・砂漠化

教科書では教えてくれない(遊牧の起源) 西アジア~中央アジア~中国年表
気候変動により、農作物が不作。草原が砂漠化へ。
遊牧部族は、奪い取るために騎馬民族化へ 😈
それに対して、農耕部族は、自らの定住の地を守るために防御の城壁を 👿
こんな 構図 になったのでしょう。

投稿者 sawatan : 2008年05月11日 List  

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