水田・稲作に見る日本人の「勤勉性」 |
メイン
2008年05月06日
中国:祖霊崇拝の起源
※西洋の遊牧父系制が、守護神信仰(後に一神教へ)に収束していったのに対して、東洋の父系制は竜山文化に見られるように、祖霊崇拝によって自部族の結束を強め(後に→儒教へ)に収束していったという違いがあり、その起源に違いがありそうです。中国、母系→父系制への転換期①: BC3000年の竜山文化は既に父系制・身分制へ
先日のこの記事。最近、日本の縄文と中国を調べていて、一つ共通点がある。多くが一神教であるのに対して、祖霊(祖先)崇拝(信仰)強いということだ。(日本の場合は、弥生以降ですが)
今日は、なぜ祖霊崇拝という信仰様式を獲得したか
そこを追求してみたいと思います
殷王朝でも、祖霊崇拝へと変わっていった…
byさーね
どうも、中国の遊牧民族と聞くと、戦闘集団!的なイメージのみを思い浮かべてしまいますが、るいネットの以下の投稿を読んで、少し視点を変えるべきだと考えました。
匈奴に見るモンゴル遊牧民の本源性
彼らは略奪や殺戮も行ってきたが、示威行為や話し合いなどで服属させ、可能な限り戦争を避けてきた。かれらモンゴルを征した遊牧民たちは狭義の氏族・部族の服属連合体ではなく、縄文人にも通ずる積極的な融和政策(婚姻を含む)によってより強い紐帯を築けたと言えます。
遊牧民族というと、自集団第一。極端に言えば、私有意識第一と捉えがちだが、それだけの集団であれば集団統合という視点は決して成立しない。集団内も個人バラバラになってしまう。
いかに、集団統合したか?この視点をもって、なぜ祖霊崇拝という信仰様式を生み出したか?を見ていきましょう。
東アジアの古代王朝①書かれた古代中国の宗教と政治
を参考にしました。殷時代の祭祀を追った史料です。
詳しくは、サイトを読んでみてほしいのですが、要約すると以下のような祭祀体制の変遷があるようです。
○祭った神の種類→帝・自然神・祖先神
>帝の働きというのは戦争や都市の建設などの人事に関わる部分があります。
>自然神の働きは農作物の実りや降雨など自然現象に関わってきます。
>祖先神の働きは王をはじめ生人に対する「たたり」です。
○変遷
第一段階:部族で各々自然神,祖先神がいて、各々祭っていた。
第二段階:帝は一方的に人々に作用。祖先神と自然神を祭っていた。
第三段階:祖先神と帝が同じ地位に。祖先神に一部自然神を取り込んだ。
第四段階:祖先神の位置は変わらず、殷王がより力を持ち始めた。
殷の初期から既に祖先神は存在したが、王朝の歴史の間で、祖先神が最高神帝と同地位になった。この変化は、まさに祖霊崇拝が強固になっていく過程を示しています。
さて、ここからは僕自身の仮説です。このような変遷を経たのは、実は、遊牧民族が出自だからではないでしょうか
例えば、竜山文化時代は、多くの部族がひしめき合っていたと言われています。それだけ、集団間圧力も高く、争いが起こり始めていた可能性が高い。そのような中で、現実の集団間の争いに勝ち抜いていく必要があった。きっと、その中で勝ち抜いていった部族の長は、現実場面を突破した功労者として、集団内で尊敬の対象となった=信仰の対象になった。その長が亡くなり、人々は祖先として祭った=祖霊崇拝の起源ではないでしょうか
よって、その後の時代は、どの部族も祖霊崇拝の様式をとっていた。
改めて、殷の第一段階を見てみましょう。殷族も祖先神を祭っていた。ただし、殷族は他部族も統合しようと最高神帝を創造した。しかし、現実を突破した祖霊崇拝の信仰は強く、次第に祖霊崇拝へと戻り、帝は単なるお飾りとなった。
殷時代の甲骨文からも、征伐へ向かった数はかなりあるそうです。すなわち、遊牧民族の圧力が常にあったと考えてよい。その中で、さらに闘争という現実を突破した祖先そのものへの信仰=祖霊崇拝が強固になったのだと思います。
PS:一方、祖先神に自然神を取り込んだのは、共同体的な資質を若干残したということだろうか?
投稿者 sawatan : 2008年05月06日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2008/05/502.html/trackback
コメント
投稿者 Hiroshi : 2008年6月13日 23:45
Hirishiさん、コメントありがとうございます☆
うーん、シュメール人がどこから来たのか?とか、どのように侵攻していったのか?
なぞだらけですね><。。
というか、そもそもウバイド人ってどういう人?や、どのような証拠をもってそこにいたと明らかにされているのか?も含め、まだまだ勉強不足なところがいっぱいだと感じています(^^;。
引き続き勉強していきますので、またコメントくださいね☆
投稿者 みつこ : 2008年6月17日 23:15
mitukoさんこんばんは、
シュメールは、南のペルシャ湾沿いに南メソポタミアに移住しそこで勢力を蓄えた後にメソポタミア各地へ侵攻したと考られますが、そうすると、メソポタミアの最北のガウラで初期の戦闘の遺跡が見つかっているのがつじつまが合わなくなってしまい、すこし考えこんでしまいました。
ただ、ウバイドはもともと防御施設も持たないうちに蹂躙されてしまったのかもしれない。北方に至ってようやく防御を整えた?