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2011年06月28日

中国の民衆史~大づかみに中国ってなに?~

 こんばんは、カッピカピです。:D
 当ブログでるいネットで、原発・地震問題と並んで、かなり深い追求が行なわれている「中国」。みなさんは、この「中国」について、どのようなイメージを持っていますでしょうか?
 中国のことわざに「一人で廟に入るな、二人で井戸をのぞくな」というものがあります。一人で廟(=寺)に入ると、悪い坊主のカモにされ、殺されて金品を奪われてしまうかもしれない。二人で井戸をのぞくと、相棒に突き落とされる危険があるという意味です。中国では、このような人間不信社会で生き残り、競争に勝つために兵法が発達したと言われています。
 また、中華思想に代表されるように、中国人は、自国が世界一であることを自負しています。「中華」とはもともと、世界の中心に花咲く、という自負を込めた理念名称であり、それを国号として用いているのが中国なのです。
 それに対して、日本人は今も昔も、徹底的に受け入れ体質でありました。大陸から弥生人が到来した時も、黒船来航した時も、日本人はそれぞれの文化を取り入れてきました。それは、国名に理念名称(共和国、帝国etc.)が含われていないことにも現れています。
 おなじアジア諸国の中で、なぜこのような違いが生まれるのか。尖閣諸島問題に代表される反日運動はなぜ起こるのか。急成長する中国経済は今後いつまで続くのか。日本国債を大量買いした中国の意図は何なのか。
 これらの中国を取り巻く諸問題を考える上で、「中国人とはなんぞや」という疑問を、ベーシックな部分から押さえていく必要があります。
 そこで、今回は、その取っ掛かりとして、あらゆる角度で斬新かつ大胆な切口で中国人の本質に迫った、加藤徹著「貝と羊の中国人」から、これはと思う部分を抜粋・引用してみたいと思います。
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◆貝の文化 羊の文化
・中国人の祖型は、今から三千年前、「殷」と「周」という二つの民族集団がぶつかりあって出来た。
・この三千年前の東方系の殷と、西方系の周の気質の違いは、現在中国人にも受け継がれている。
殷人は、目に見える財貨を重んじた。当時、貨幣として使われていた「子安貝」と呼ばれる貝であったことから、有形の財にかかわる漢字には「貝」が含まれる。(ex.財、貯、貿、買、賜、貴、費、貢、貨、資、賞、賭・・・)
・殷人は、自分達の王朝を「商」と呼んだ。周によって滅ぼされた後、「商人」と自称していた殷人は各地に散った後も連絡を取合い、物財のやり取りをすることを新たな生業とした。
周人は遊牧民族の血をひいており、「天」を信じた。周人は、「天」を祀る儀礼において、羊を犠牲にして供した。さらに、周人は、羊を捧げるだけでなく、善行や儀礼など、無形の「よいこと」をともなわなければ、天は喜納してくれないと考えた。このことから無形の「よいこと」にかかわる漢字には羊が含まれている。(ex.義、美、善、祥、養、儀、犠、議・・・・)
・孔子が創った「儒教」は、この「周」の文化の復興を提唱したものだった。
⇒現代中国人は、太古の二つの先祖から、ホンネとしての貝の文化と、タテマエとしての羊の文化の両方を受け継いでいる。
この異質な二つの性向が、どちらも彼らの血肉となっており、ここに中国人の強みがある。

◆流浪のノウハウ
中国語では、「泊まる」と「住む」を区別しない。
・中国人は、国内だろうが国外だろうが、いい土地を見つけたら、そこに根をおろす。その後は状況しだい。
中国人の先祖は広大な土地をあちこち移動してきた。その結果、彼らは民族的経験として「流浪のノウハウ」を蓄積した。(ex.中国人は生水や生ものは口にしない。暑い夏でも、お湯やお茶を飲み、火を通した料理を食べる)
・大飢饉が起こった時、日本の農民は流浪になるノウハウもなく、故郷にへばりつき、甘んじて餓死を受けいれるが、中国では、飢えた農民が流民と化し、王朝になだれ込む。
実際、中国の歴史では、王朝交替の混乱期などに、しばしば数百万単位の流民が発生するのが常であった。史上、いくつもの王朝が農民反乱によって滅亡し、その度に、中国の人口分布図が大きく塗り替えられた。
・流民の子孫は、故郷の土地を離れたハンデを克服するために、実力を磨かねばならない。そのため流民の子孫は、しばしば人口比以上の存在感を示す。
⇒この流浪のノウハウが、中国の流動民の中で、最もよく知られている華僑・華人を生み出した原動力であり、現代中国人の海外留学生や研究者が多い所以でもある。
◆中国人の頭の中
・中国の大きな病院の周囲には「寿衣」という死人に着せる経帷子の店が何軒も立ち並んでいる。日本で、病院の近くに葬儀屋が立ち並ぶことはないが、中国では入院患者でさえ、葬儀屋が病院の目の前にあることは便利で自然だと考える。
中国人は「功」よりも「徳」を重んじる。
(「功」とは自分の職業や仕事を通じて、世のために働くことであり、「徳」とは見返りがないことを承知の上で人を助けることである。)
だから、日本政府が中国に行なってきたODAや円借款は中国人の感覚では「功」であり、「徳」ではない。

中国人は大陸に住んでいるせいか、縄張り感覚が大らかである。中国人は、狭い空間に入ると、安らぎよりも窮屈さを感じる。中国建築に茶室はない。個室トイレさえ、嫌われた。
・見知らぬ相手との中間領域に、雑誌があった場合、日本人であれば、手を伸ばさないか、あるいは一言告げて、相手の了承を得てから読む。しかし中国人は、まるで自分のものであるかのように手を伸ばしてくる。それが、中国人の縄張り感覚である。この大まかな縄張り感覚が、海賊版氾濫の一因にもなっている。
・この大まかな縄張り感覚をもつ中国人は、思想や宗教について大づかみ式合理主義を好む。例えば、中国の動詞に「活用」はない。原形も未来形も過去形もないのは、前後の文脈で判断できるからだ。
中国仏教もそうである。インド人は分析的思考を得意とする民族である。インド仏教は高度に抽象的で分析的であった。そのため、インドから中国に伝わった仏教は禅宗だけを例外として、宋の時代までに衰退し、消滅した。禅宗だけが生き残れたのは、「不立文字」を身上とした、ただひたすら座禅と念仏というシンプルさが中国人の体質にあったからに過ぎない。
⇒中国人を説得する場合は、周辺部は捨象するという大づかみ式合理主義を駆使することが時には必要となる。
◆中国の階級制度
中国史は一言でいえば、士大夫という階層が文明を乗っ取る過程の歴史であった。
孔子の時代は、士大夫は単なる役人に過ぎなかったが、儒教が官学化されると、士大夫の知識人としてステイタスをあわせもつようになり、その地位は格段に向上した。
・科挙は、儒教的教養を問う、超難関の官吏登用試験である。身分階級や国籍を問わず、誰でも受験できた。理論的には、農民でも科挙を受験して、優秀な成績で合格すれば、大臣になることができた。
・そのせいもあって、中国での階級間闘争は早々と終わってしまった。科挙という官吏登用試験があったため、有力農民や豪商も士大夫層に取りこまれた。地主や豪商は、自分達の独自のステイタスや自由を獲得しようとするよりも、自分の子弟を科挙に合格させ、士大夫層の仲間入りを果たし、社会の甘い汁をすすろうとした。
・このように、中国の士大夫層が早々と「ひとり勝ち」を決めたことによって、中国では、西洋流の市民革命は一度も起きなかった。中国は王朝が滅んでも、中間支配層たる士大夫層は不滅だった。
⇒中国文明は、士大夫という一階級によって支配されていたのである。
◆地政学から見た中国
・島国である日本にも国境線はある。だがそれは海を走っている。中国は四方をぐるりと外国に囲まれている。
このような中国の地政学的条件は、日本に比べるとかなり不利だった。それが中国の近代化を遅らせた一要因となっている。
・中国は昔から南と北で大きく違っていた。気候風土も、人も、歴史も文化もそうである。
・北はコーリャンや麦の畑作に適し、南は水田稲作に適す。
北は人工の文明、南は自然の文明であった。黄河も長江も、氾濫や洪水を繰り返した。北の黄河は、なんとか治水工事が出来た。しかし、黄河よりはるかに巨大な長江の氾濫は、人力をもって治めることは出来なかった。
中国には水を治める者が、天下を治めるということざわがある。伝説によれば、黄河の治水工事に成功した禹が、中国最初の王朝「夏王朝」を創始したとされている。
・「国家のもとで、多数の人間の力を結集すれば、大自然さえもコントロールできる」という黄河文明の強烈な原体験が今日にいたるまでの中国文明の基本性格を決定した。
これに対して、長江文明は、治水体験を持たなかった。圧倒的な力をもつ大自然は、人間の力を超えた存在だった。
⇒結局、長江文明は地域的文明にとどまり、中国文明の主流になれなかった。黄河文明の中心だった殷王朝は紀元前十一世紀、周に滅ぼされ、「貝の文化」と「羊の文化」が融合したことで、黄河文明はさらに強固となった。
◆中国の多面性
・日本は「先進国」の一員であるが、中国はまだそうではない。日本社会と中国社会の違いは、それぞれの民族性の違いだけでなく、国民国家としての成熟度の差によるところも大きい。
都市部と農村部の経済格差も大きい。しかし、中国共産党の支配、という分母によってかろうじて一国としてつながっている。
・中国はいまだに国政選挙制度がない。議会制民主主義という面では、中国は、日本の大正時代のレベルにも達してない。
中国の民衆は、テレビや新聞やニュースが、党や政府によってコントロールされていること、当局が公表する統計がみな「大本営発表」であることはよく知っている。だた、それを口にしないだけである。
小泉総理の靖国参拝以来、中国共産党は、日本人の残虐さは民族的な特性であるという論調に変わった。それまでは、抗日戦争は、日本の一部の軍国主義者が起したものであって日本の人民も被害者であったという論調だった。
・抗日戦争六十周年記念の年、日本軍がいかに残酷であったかを、連日特集番組として流していたが、夕方の時間帯には「ドラえもん」などの日本のアニメがふだん通り放送されていた。「吉野屋」や日本風の回転すし屋も繁盛していた。
                  
 中国社会では、上も下もホンネとタテマエを極端に使い分けていることがわかります。もし、中国人が全員「反日」で、心のそこから日本人を恨んでいるのなら、日本コミックや、日本風の名前を冠した飲食店が繁盛するでしょうか。
 タテマエだけでなく、ホンネでも中国人が「反日」にならぬように、私達は、中国社会の表層部分だけをみて「嫌中」に走ることなく、歴史構造や社会構造を解明し、中国と向き合っていくことが大切だと思います。

投稿者 hi-ro : 2011年06月28日 List  

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コメント

日本人の「お上意識」がどのような歴史で形成されてきたか、具体的にわかってよかったです。
3つの時代を区切って説明していただいていますが。それぞれの時代の特徴はどんなでしょう?あるいは3つに分けて捕らえたのはなぜでしょう?教えていただけると嬉しいです。

投稿者 fwz2 : 2012年1月19日 22:48

fwz2さんコメントありがとうございます。
やる気の湧く質問ですね。
さっそく答えさせていただきます。
>3つの時代を区切って説明していただいていますが。それぞれの時代の特徴はどんなでしょう?あるいは3つに分けて捕らえたのはなぜでしょう?教えていただけると嬉しいです。
3つの時代に分けたのは
お上の側と庶民の側両方の意味があります。
それぞれ簡単に書きます。
お上の側)
1)朝廷のみ支配者
2)朝廷と武士が並存
3)武士が実質の支配者
庶民の側)
1)共同体が残存し、お上に抵抗
2)荘園の広がりと共に人が移動、農地を中心に共同体が変化
3)惣村の形成に伴い共同体の再構築
  ⇒現在の村落に繋がる共同体の形成
3)に至っては武士ー朝廷と2重のお上が存在した事になります。庶民はより自らの基盤である共同体を強く構築する必要性に迫られたのだと思います。
いかがでしょうか?

投稿者 tano : 2012年1月23日 23:02

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