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2011年08月23日

日本の支配階級の意識構造を解明する ~極東アジアの支配の歴史8 中国とインドシナ半島の関係

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>次回は、朝鮮、日本以外の東南アジア諸国が、大国中国に対しどのように接していったのかをお届けする予定です。
日本の支配階級の意識構造を解明する ~極東アジアの支配の歴史7 中国の朝貢制度とは 
この間大陸中国~朝鮮半島を中心に、アジアの歴史を追求してきましたが、今回は視点を変えて、中国の南、インドシナ半島を代表する国家であるベトナムの歴史を調査しながら、中国との関係を考察してみたいとおもいます。
ベトナムの歴史とベトナム人の気質を調べていく中で、属国意識の中身が少し解明できたようにおもいます。
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ベトナムにはじめて国家が成立するのは939年の呉朝といわれており、日本でいえば平安時代・朝鮮では新羅が半島を統一していた時代です。
それまでは北部は漢・隋・唐の領地下におかれ、南部は部族連合がひしめきあう時代でした。

紀元前221年、中国では始皇帝の秦が成立し、50万の軍勢で長江の南(百越)を攻 略した。(紀元前214年)。 始皇帝の死後、秦の臣下が南海、桂林、象郡を統合して、百越より更に南の果てを意味する南越国(ベトナム語の発音で、南越は「ナム・ヴィエト」)を建国し、広州に都を置いた。その後、紀元前179年頃、南越国は、現在のベトナムにあたる甌駱国を統治した。秦の次に中国を統一した漢は南越国を攻め滅ぼし、南越を交趾、九真、日南の三郡に分割した。漢は官吏を大量に送り込み、地元住民から激しい搾取を行った。
初期においては、ベトナム北部と中国の華南の民族は、単一国家を形成し、その後、中華世界に組み込まれていった。これ以後、939年の呉権の独立達成までの千年間、ベトナムは中国に支配されることになる。

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その後、ベトナムの王朝は11回もかわるが、その間も幾度となく中国の侵略を受けることになります。
そして1900年にはフランスが中国からその支配権を奪い取ります。
ベトナム王朝最後の阮(グエン)朝(1802年~1945年)はこんな国家として紹介されています。

阮朝は、「自国のことを『中国』(チユンコク)呼び、世界の中心に位置すると称して、自国を中国と兄弟であり対等の国家と見なしていた。そして中国を『北朝』、自国を『南朝』と呼んだ。」阮朝の君主は、中国の皇帝と同じ「皇帝」「天子」の称号を使い、中国以外の国(フランスやイギリス、タイなど)と自国民に対して「大南国大皇帝」と名乗った。「大南国大皇帝」の使節は、中国の皇帝の前では、「越南国王」の代理人として朝貢した。カンボジア、ラオス、ビルマなどが軍事援助を求めて、代表使節を送ってくると、阮朝は、その使節を自国の徳を慕ってやって来た「封臣」と勝手にみなし、自国が「中国」であることを正当化した。阮朝は、これらの「封臣」に囲まれた「優越感と宗主意識」を持ち、北の中国と「南の中国」とは、宗主対封臣の関係ではなくて、対等な関係であるとした。

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20世紀に入り西洋諸国が帝国主義によるアジア進出を行う以前までは、大国中国が中心となりその周辺諸国が朝貢によって結ばれ、アジア地域の秩序が形成されていたという点では、中国と朝鮮半島・中国とインドシナ半島の関係はほぼ同じだと考えられます。
ただし前回の記事にある「■朝貢は「安全保障条約」であり、「経済活動~貿易」であった。」というように、朝貢によって結ばれた属国関係は、あくまでも現実に適応するための手段であり、民族としての自尊心?をすべてゆだねるものではありません。
特に阮朝と清との関係は、面従腹背という態度が露骨に表れており、これは清が異民族国家(満州族国家)であることと大きく関わっています。

■ここで時代を現代に戻し、今のベトナム人気質を少し紹介します。
●ベトナム人を知る

ベトナム人は他の人、特に遠方から来た人を喜ばせるのが好きであるという。そのため、ベトナム人はたいていどんな質問にも、「はい」、「大丈夫です」、「大したことではありませんよ」などの肯定的な返事をするのだが、実は答えた時点で、問題が何であるかを探っているところなのである。例えば、「来月の納期に必ず納品できますか?」との問いに「はい」と答えるのは、取引先との関係を円滑に保つために過ぎず、心の中ではどうやって納期に間に合わせるか解決策を練っている。一方、外国人が同じような状況に立たされた場合、まず解決策を準備した上で初めて「はい」と答える。ベトナム人はとりあえず「はい」と答え、どうするかは後で考えるのだ。
個性を尊重すると言われる欧米人と比べ、集団を尊重するベトナム人の方が大勢の人が共に取り組むプロジェクトの成功率が低いのは驚くべき事実である。ベルギーの経営管理機関の講師を勤めるPaul Pilavachi博士によると「集団性の高い人々は、組織で何かをしようとするときにも一番の重要事項は“皆が同意すること”であり、メンバーの調和を図ることを最優先にします。この行為が仕事を遅らせ、時には本来の目的さえ見失う結果となるのです。一方で個性を尊重する組織では、一緒に仕事をしていても最終目的は“組織の仕事が成功すること”であり、組織内の人間関係はさほど重要視されないのです」と言う。
ベトナム人は「アメリカ人は個人を尊重するあまり我が強過ぎる」と考えており、アメリカ人が「ベトナム人はどうしてはっきり物を言わないんだ。うわべのことをペラペラしゃべってばかりで、解決すべき問題に立ち向かおうとしない」と批判されても驚きはしない。実際、ベトナム人は、アメリカからやって来たビジネスパートナーの理屈に説得されたわけではなく、内心「人生はそんなにシンプルじゃないんだよ。どうせ言っても分かってはもらえないだろうし、とりあえずうなずいておくか」と思っているのだ。
契約締結の場においても、ベトナム人は自分の契約相手に対する印象を信じ、取引の大まかな部分のみを見て詳細にまで注意を払わない。一方外国人はというと、それまでに取引先と良い関係を築いていたとしても、交渉の際には必ず弁護士を同行させ、歯に衣着せず討論しようとする。このやり方にベトナム人はショックを受け、「自分たちは相手を信頼しているのに、なぜ彼らからは信頼してもらえないのだろう」と感じるのだ。会議やセミナーの席で、理解が不十分であったり納得がいかない時でもベトナム人はたいてい沈黙する。“衝突したくない”、または“難しい立場に追い込まれたくない”という心理からこのような態度をとるのである。

※なんとなく私達日本人に似ているとおもいませんか? 😮
続けてもうひとつ。
●ベトナム人と日本人

べトナムの人々と共に生活を始めた際の第一印象は、ベトナムは何と日本に似ているのであろうか、であった。
義理人情もあり、ベトナム人と日本人は道徳観、人生観、価値観などを共有している、同じような民族ではないかとさえ思った程である。
しかし、暫く共に暮らしてみると、微妙なところがやはり日本人とは違う。
おおらかでありながら繊細さが混在し、また、それとは異種の「生存」に対するバイタリティー(したたかさや自己主張などが含まれる)を併せ持っているところなどは、日本人とは異なるものがある。
地理的条件、歴史的条件、社会的条件等々が異なっているのだから、ベトナム人と日本人が異なっていても、何等不思議ではない。
異なっていることは当然だが、なぜ似ているのかが永年に亙って筆者の頭を悩ました。
似ている点は、両国が中国文化の影響を受けているためだが、それだけとは思われない。
共に中国文化の影響を受けたと思われる部分を剥がしていくと、「歌垣(うたがき)」、「刺青(いれずみ)」、「お歯黒」等、中国文化の深層に潜む相似性に行き当たる。
ところが、数年前から照葉樹林文化圏ということをしばしば耳にするようになった。
照葉樹林のある雲南など、中国南部が日本文化の故郷とする説である。
そんなある日、東アジア文化交流史研究会のN事務局長から『倭と越―日本文化の原郷をさぐる』(同研究会刊)を頂き、数本の論文を読んで、やっと長年の疑問が解けたような気がした。
同誌に掲載されている『わが照葉樹林文化論』(梅原猛・国際日本文化研究センター所長)には次のようなくだりがある。
「……稲の発祥の地は、作物学や遺伝子などの調査研究によって、アッサム・雲南地方であるという説が有力である。……稲の栽培を始めたのは、中国文明を築き上げた中原の漢民族ではなかった。中国南部から南西部にかけて住んでいた人たちであった。彼らは中原の人から「越」あるいは「百越」と呼ばれ、さまざまな部族からなっていた。治水に成功した禹を始祖とする夏王朝は、神話の世界の作り話で、実在しないとされてきたが、最近は稲作民族の王朝ではなかったかという説が出てきている。彼らはやがて中原から勢力を伸ばしてきた漢民族の殷、周に吸収され、あるいは追われて辺境に押し込められた。雲南地方などにいる少数民族は、その子孫であると考えられている。百越の一部は海に押し出され、日本列島に渡ってきたものもいると思われる。「倭」とか「倭人」と呼ばれた人々がそうであり、彼らが日本に稲作を伝えたものと考えられる。「倭」は「百越」の一つであり、「倭」と「越」とは、同じ根から分かれた同族関係にあったとみられる。……」
 
同論文によれば「倭人は百越に起源し、その原郷は古代の古代の甌貉地域にあったかもしれない」としている。
甌貉地域というのは後に述べる通り、北部ベトナムからベトナムに接する南中国の地域である。
この説は、確たる歴史的証拠がないのかも知れないが、もしこれらの説が正しければ、ベトナムと日本の風俗習慣等に相似性があることは当然だし、ベトナムと日本が同じ根から分かれた同族関係というのは歴史のロマンが感じられ、楽しくなる話である。

■最後はベトナムの宗教について紹介します。
ベトナムに国教とよべる宗教はあるのか

東南アジアのほとんどの国では、なんらかの宗教が国教ないしは国教に準じた地位を占め、国民の大多数の熱心な信仰をあつめている。
たとえばマレーシア・インドネシア・ブルネイではイスラム教が、タイ・ミャンマー・カンボジア・ラオスでは仏教が、フィリピンではキリスト教がこうした地位を占めている。
これにたいしてベトナムには、国民多数の篤い信仰をあつめる国教的な宗教がない。たしかに、ベトナム人の過半数を仏教徒に分類することはできるが、その大多数はとうてい信仰にあついとはいえず、タイの仏教徒とはとうてい比較にならない。
仏教はベトナム最大の宗教であるが、日本と同じく、仏教徒の定義が難しいため、仏教徒の割合を正確にしめすことができない。しかし、ベトナム人のおよそ8割は広い意味での仏教徒に分類できるとみられている。
ベトナムの仏教はほとんどが大乗仏教である。これはベトナムが中国領の一部であった時代(前179年~後939)に、中国から大乗仏教が入り定着したためである。タイ・ミャンマー・カンボジア・ラオスなど東南アジアの他の仏教国が、南方上座部仏教(小乗仏教)であることと対照的である。
儒教・道教とともに、仏教はベトナムの伝統的三大宗教を構成している。このうち儒教と道教は廃れかたが著しいうえに、教団としての組織力がほとんどない。ひとり仏教だけが社会的な勢力をかろうじて保っている。

※タイトルにあるとおりベトナムでは宗教的影響は少なく、韓国の儒教のような強固な規範もないようです。
もちろん詳細に調べれば、ベトナムでも特に官僚階級あたりでは、儒教がかなり浸透した時代もあったようですが、一般庶民にはほとんど定着せず、観念的な規範にあまりしばられていないという点が特徴です。
このあたりが韓国よりベトナムに日本人が共感しやすい理由が隠されていると考えられます。
●まとめ
属国意識という視点でこの間アジアの歴史を見てきましたが、中国という圧倒的な大国とその周辺国という関係は、どの国においてもほぼ共通だと考えられます。
20世紀に入り西洋諸国が帝国主義によるアジア進出を行う以前までは、やはり中国を中心にアジアの秩序は形成されていました。
このような歴史が、事大主義を形成し、現代のビジネスシーンにおいても「皆が同意すること」を「組織の仕事が成功すること」よりも優先させてしまう意識に引き継がれ、目先の(大国中国や周辺諸国との)安定秩序をまず最優先で考えてしまう「思考の射程の短さ」=属国意識のひとつを形成していると感じました。
この点はベトナムも日本も同じであり、これからの国際情勢に適応するために突破しなければならない大きな壁であると感じます。

投稿者 chai-nom : 2011年08月23日 List  

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