2011年8月6日
2011年08月06日
シリーズ3:縄文晩期は祭祀に彩られた、祭祀に可能性を求めた苦悩の時代
縄文晩期をこれまで2回に渡って見てきました。
「寒冷化の危機が渡来文化への融和を促進」
「渡来民との融和的な共存がその後の舶来信仰、平和的外交の基礎に」
この間の追求で明らかになった晩期を特徴付ける出来事や状況を少しおさらいしてみたいと思います。
気候は縄文後期から晩期にかけて2度以上低下しました。紀元前1000年をピークに寒冷化に伴う植生分布の移動、縄文人が食の対象としてきた温帯落葉樹林帯がほぼ絶滅。列島の人口はピーク時の1/4に激減。東の縄文人は東北地方を除いて1/10とほぼ絶滅、又は西へ移動して定住し、移動の民となります。
採取漁猟を中心とする縄文文化が気候変動により壊滅的な打撃を受ける中、日本列島に次々と渡来したのが中国の呉越の渡来民です。春秋戦国時代の戦乱から押し出されて最初に呉の一派が九州へ、100年遅れて越の民が出雲から日本海側に定着、食糧難に苦しむ縄文人を取り込んで栽培文化を定着させ、寒冷化が収束した弥生時代初期には稲作を拡げていきます。これが銅剣、銅鐸文化として西日本に中国発の大陸文化を広げていくことになります。
しかし、同時に南方部族故の同族性を有していた大陸の民はほどよく縄文人と同化し、同時にそれまで日本列島を覆い、成熟していた縄文文化も集団の中心として取り込んだいったのです。
縄文晩期とはまさに弥生一色でもない、縄文一色でもないこの両文化が重なり合い醸成した時代であったとも言えます。
その醸成した時代を表す最大の特徴とは何でしょう?
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投稿者 tano : 2011年08月06日 Tweet