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2009年09月21日

中国に世界が侵入した時代:モンゴル帝国(元)

中国の歴史で転換点かもしれない。と感じたのがモンゴル帝国⇒元の時代。ヨーロッパやイスラムがアジアと繋がった時代だ。
世界史を動かしたアジアや中近東の民族(モンゴルとイスラム帝国)
→(ヨーロッパは)『世界史を動かしたアジアや中近東の民族』に太刀打ちできないから、略奪・奪還する。
⇒それくらい、モンゴル帝国の成立は世界史に影響を与えたということ。
その強大な力を誇ったモンゴル帝国を紹介します。

モンゴル帝国は、チンギス・ハンによって統一された中央アジアの遊牧民が、中華帝国、イスラム帝国、キエフ公国という農耕世界を征服することで形成された。
モンゴル帝国は、東・西世界を統合し、ユーラシアの大部分を支配した点で、「世界史」の起点となる大帝国であった。当時(13世紀初め)の中華帝国(南宋)は、北半部を金に征服されており、イスラム帝国(アッバース朝)も地方政権の分立により名目的な存在にすぎず、ともに衰弱していた。モンゴル人は大商圏の統合を求めるイスラム商人の助けを借りて、東西の大農耕地帯を征服・支配したのである。
(早わかり世界史 宮崎正勝著 日本実業出版社より)

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◇ユーラシアを制したモンゴルの大帝国◇
(早わかり世界史 宮崎正勝著 日本実業出版社より)
byさーね
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歴史研究所 中国史
第14回 モンゴル帝国
第15回 元の中国支配
第16回 モンゴル・元代の文化
参考図書
早わかり世界史 宮崎正勝著 日本実業出版社

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フビライは、それまでの遊牧生活から定住生活へと方針を転換することにし、首都もそれまでのカラコルムから、64年には内モンゴルの上都に、67年には中国北部に大都を建設し、移転しました(正確には、上都を夏の都に、大都を冬の都にした)。
(中略)
しかし、これに反対したのがオゴタイ家のハイドゥです。トゥルイ家には一族を殺された恨みもあり、また中国に重心をおくことは、それまでのモンゴルの故地を捨てるに等しいことです。彼は、1269年にチャガタイ家、ジュチ家の支持でハンの座に就き、フビライに宣戦布告します。これがハイドゥの乱で、フビライが死去した後の1310年まで続きました。
 そして、これによりモンゴル帝国は解体し、ジュチ家によるキプチャク=ハン国(ロシア地域 キプチャクはこの地方にいる民族名)、チャガタイ家によるチャガタイ=ハン国、フラグのトゥルイ家によるイル=ハン国(イラン地域)、オゴタイ家のオゴタイ=ハン国(モンゴル西部)、そしてフビライの「元」に完全に分裂しました。第15回 元の中国支配

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○ヨーロッパからも人が来た
 元代は、これまでになく国際性豊かな文化が花開きました。ヨーロッパとのつながりも出来ます。前述のように、対イスラム教の観点から、ローマ教皇はプラノ=カルピニ(1182頃~1252年)、それからモンテ=コルヴィノ(1247~1328年 カトリック教を初めて中国で伝える)を、フランス王国のルイ9世(位1226~70年)はルブルック(1220頃~93頃)を使節として派遣します(ちなみに、ルイ9世は十字軍としてイスラム征討に情熱をかけた王である)。
 また、イタリアにあるヴェネツィア共和国の商人マルコ=ポーロ(1254~1324年)は、フビライに仕え、元のあちこちを回ることになり様々なことを見聞します。彼は、17年間フビライに仕え帰国します。ところが、ヴェネツィアと、ジェノバという都市国家どうしによる戦争で捕虜となり、幽閉されます。この時、囚人達に語り、それが同じ獄にいた作家のルスチケロにより「世界の叙述(日本では東方見聞録と呼ばれる)」として著述されます。この本は、ヨーロッパ社会において東方への憧れをかき立て、大航海時代へとつながらせた歴史的な作品です。 第16回 モンゴル・元代の文化

モンゴル帝国から元の時代は、中国がイスラム,ヨーロッパと一気に繋がった時代でもある。その後の中国史は、このような圧力下にあると考え、追求していく必要があると感じました。

投稿者 sawatan : 2009年09月21日 List  

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コメント

アイヌ民族といえば、自給自足の共同体として長く残存していた安定した民族と思っていましたが、歴史を紐解くとかなり周辺の民族の影響を受けているようですね。
途中からは交易を中心として変容しているようですが、このあたりはもう少し詳しく見ていきたい部分です。交易中心としていたのはアイヌ民族全てなのか?一部なのか?
松前藩から不利な交易を強いられてまでなぜ応える必要があったのか?
アイヌ=交易民として固定する前に調べておく必要があると思います。

投稿者 tano : 2009年11月24日 12:49

>自然崇拝が基本で、多神教の体系をもっていた
とありますが、アイヌの信仰形態は、自分達に害を為すもの、恐れるものを、基本的に神としており、森羅万象全てを神(あるいは精霊)として対象化していたわけではないと思うのですが・・・
それは、また縄文も同じではないかとも思います。
その辺りは、いかがでしょうか?

投稿者 クルッポ : 2009年11月24日 22:53

アイヌの歴史面白いですね!
まとめてくれてありがとうございます☆
特にプレアイヌと言われる部族がどうやって日本に来たのか?諸説あるようですが、縄文人と繋がるかどうかはこの辺りがポイントになってきそうですね。
これからも追求を楽しみにしています!!

投稿者 カムイコタン : 2009年11月26日 11:01

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