中国に村落共同体は存在しなかった。 ~共同体を知らない個別二者関係が積層した社会~ |
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2007年07月16日
中国専制国家体制 ~「法」を媒介とした厳格な百姓支配システム~
中国の社会は、共同体的な土壌をかなり早期に失ってしまったらしい。どうしてそうなったのか?
前回 「中国に村落共同体は存在しなかった」の続きです。
西尾幹二氏が注目している研究家、渡辺信一郎氏は、上部構造の中核をなす国家それ自体の解明と分析が決定的に疎かにされてきたことに疑問を抱き研究を進めてきたという。
超巨大国家中国の本質に迫るためには、その視点は不可欠というか、必要条件だと思う。
上部構造という視点から考えると、国家としての中国、皇帝権力と官僚機構、広大な領域における百姓支配のメカニズムはどのように機能していたのだろうか?
広大な領域と多様な人種・民族をどうやって統治したのか?中国に比べればかなり小さな国日本で、天皇を中心とした中央集権の時代というのは、奈良時代などほんのわずか、しかも十分に統治できていたのかという疑問もある。一体広大な中国でどうやっていたのだろうか?
中国の文民官僚支配(以下『国民の歴史』西尾幹二氏より)
>古代中国においてつねに文官が武官に優越していたのはなぜか?中国の王朝交代は、武力による王権の簒奪にほぼ決まっているのだが、いったん新しい王朝が成立すると、再び何事もなかったかのごとく同一性格の文民官僚支配による専制国家体制がたちまちのうちに成立し、固定してしまうという、あの国家の社会構造はどうなっているのだろうか?
「法」を媒介とした厳格な百姓支配システム
・中国では法家の思想が極めて重要な役割を果たしている。『韓非子』難三に「人主の大物、法に非れば則ち術なり。法はこれを図籍に編著し、これを官府に設け、而してこれを百姓に布するものなり。術はこれを胸中に蔵し、以って衆端を偶し、而して潜に群臣を御するものなり。故に法は顕かなるにしくはなく、而して術は見るを欲せず・・・。」と述べられている。
分かりやすくいえば、百姓を支配するには、官府によって法を媒介としてこれを行い、群臣関係を統御するには術を媒介として百姓支配とは区別するという議論である。
・いうまでもなく、ここには人格関係は存在しない。百姓の人格的支配の体系は戸籍を編成した家の把握を通じて行われた。しかし、それでもたんに戸籍登録を広域にわたって実行させるだけでは、あれほどの広い空間領域の支配には十分とはいえない。そこでこれを補うのが治安維持と監察機能を中心とした全国規模で展開される組織であった。これは全国ー郡府ー県官府のなかに系統化されていた。
・わかりやすく言えば、秘密警察と憲兵の組織が地方の隅々までネットワークを張り巡らせていたという話である。しかも地方の行政は未発達で、県境や郡境などはそれほど明確ではない。ただひたすら百姓の人格的支配の厳格なシステムが存在していたということに尽きるであろう。 ・各行政区画の境目が曖昧であるという指摘は、先の足立氏の二十世紀に至るまでムラというものがはっきりしなかったという発見にもつながる。漢の時代から2千数百年間、あの大陸はほとんど何も変わっていない。
・儒教は非常に早くから日本にはいり、尊敬され学習の対象となってきたにもかかわらず、実際に中国を動かしていたのは刑罰の思想であり、法家のリアリズムであり、過酷な認識であることには気がつかなかった。
法家が登場したのは、500年以上続いた戦乱を統一した秦の始皇帝の時代である。(「早分かり世界史」より)
>始皇帝は全土を郡・県に分け、中央から官僚を派遣して中央集権的な支配を行った。(郡県制)
>民衆に対しては、「法」による厳しい支配が行われ、政治批判のよりどころとなる可能性のある書物を一切焼き払い、それを批判した儒家の学者を生き埋めにした(焚書坑儒)。こうして秦帝国は、20世紀初めまで約二千数百年にわたってつづいた中華帝国の枠組みとなった。
いまでも中国や韓国では、だれがどんなことを言っているかという思想監視がものすごいという。それは中国の古代から、殆ど変わっていないのだろう。超巨大国家を維持するためには、基本的な制度なのかもしれない。
一方で、上部構造だけでなく、一般の人々の意識はどうだったのだろうか?皇帝を中心とした絶対的な中央集権を受け入れたのは?
繰り返される戦乱、特に春秋戦国時代の頃、500年以上にわたる戦乱により、非常に長期にわたる軍事的緊張が絶え間なく続き、その混乱・無秩序状態を媒介・バネとして、国家による統一的な強制編成が行われていったのではないだろうか?人々は、秩序形成を優先してその強制編成を受け入れていったと。
その結果、原始以来残存していた本源集団や村落共同体は、軍事的な強制編成へと吸収され、解体されてしまったのではないだろうか?
西洋と性格が異なるのは、本源集団が解体されたにせよ、やむなく秩序形成のためであるが故に、他者に対する決定的な警戒心にまで至っていないという違いではないだろうか?
・・・・当時の圧力状況や法家の思想・政策など具体的な部分をもうすこし探ってみたいと思います。
(by Hiroshi)
投稿者 ihiro : 2007年07月16日 TweetList
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