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2011年12月01日

シリーズ「日本と中国は次代で共働できるか?」4~中国の大衆史①母系から父系に転換したのは何で?~

「日本と中国は次代で共働できるか?」シリーズ4作目
中国の大衆史の1回目です
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今回のシリーズは「日本と中国は次代で共働できるか?」ですが、
現代中国人の、「他人のことはどうでもいい」という自己中さ(例:農薬入り餃子事件)やマナーの悪さを見ていると、本当に協働できるの 🙄 と思ってしまいます。
一方で、自己中といっても、西欧の個人主義とは違い、親族の結束は強いように見えます。
日本と西欧の中間ぐらいに位置するようです。
次代(共認社会)の可能性は、日本人のような集団性にあります。それは自己中とは正反対(真逆)です。したがって、協働の可能性は、集団性の残存度が深く関わっています
現代の中国の集団性(共同性)はどのようなものなのか。
いつ、どのように変わっていったのか。
中国の婚姻制や大衆(農民)の集団のあり方を、歴史を遡って追求することで共働の可能性を探っていきたいと思います
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まず、人類の婚姻形態の始めは例外なく母系でした
洞窟で暮らしていた頃の人類は、とうてい歯の立たない圧倒的な外圧(外敵と自然外圧) を前に、集団に不可欠の期待は”日常の充足”であり、従って婚姻様式は全員婚でした(体格などの優劣関係なく全員が交わる)。
約1.5万年前、弓矢を発明すると、洞窟から出て狩猟・採取を始めます。
生産力が高まり、次第に人口が増えます。集団が大きくなりすぎると、統合力が弱くなるので、分割する必要が出てきます。しかし、分派するとそれぞれの集団の独立性が高くなり、対立してしまうので、それを避けるために、最も引力が強い男女の性→婚姻で集団間の結束・統合を図るようになります
このとき、他集団に出て行くのが男の場合と女の場合が考えられます。
男は他の集団に行っても、日々の闘争(現代でいう仕事)の中で結束し、充足できるのですが、女性の場合は、生まれ育った集団の母娘・姉妹関係の中で過ごす方が安心できます
当初は、女性が出て行くこともあったかもしれませんが、うまくいかなかったのではないでしょうか 女性が安定しないと集団内の充足性が損なわれてしまいます つまり、よっぽどのことが無い限り、集団間の婚姻は男が出て行くことになります。
その結果、集団には女性が残り、母系集団になります。(猿社会でも雄が出て行くのがほとんど。雌が出て行くのはチンパンジーなど稀。)
現代の日本でも、女性は結婚しても何かと実家とのつながりを求めます。実感としても、生まれ育った集団とのつながりが安心につながり、その安心が集団(現在では家庭)の安定につながるのは誰しも感じるところではないでしょうか?
当然、中国においても古代は何千年にもわたって濃密な母系社会の歴史がありました。
(文明以前、文字や記録が無い中で、母系だったかどうかを判別するには、埋葬などで女性が特別扱いされているかどうかでわかります。)
仰韶文化(~5000年前)では女性が手厚く埋葬されていたり(参考:互ドン百科
古姓には女偏がつくものが多かったり、
>周王朝以前の古姓の数はそれほど多くではなく、約30種ほどである。有名な姓は、渚ャ、渚^、子(好)、渚`、姫、渚ー、姜、偃、姚、嬉などで、女偏がつくものが多い。これは古代中国が母系社会であったことを示している。(「中国言語・文化教室」
確かに古代中国は母系社会であったこと、仰韶文明(7000年~5000年前頃)までは、確実に母系社会が残っていたこと、殷までそれが残っていた可能性があることがわかります :m146
しかし、劇的に変化したのは周代、チベット系遊牧民である秦が華北に入り込んでからです。
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長らく続いた遊牧民族の支配者の父系と農耕民の母系集団の2重構造がこの時代に大きな変化を迎えます。周代に法化政策を敷いた秦が先行して父系転換の道を歩み始めます :m075 :
と同時に、それまで培ってきた母系集団が解体し始めます。
母系から父系へ、共同体から家族単位へ、共認社会から私権社会へ、この時代の中国を見ていくとこれらの関係が実にパラレルに連関している事が窺えます。
まず最初に秦がとった政策が戸籍制度。さらに税制を家父長に定め、同時に土地の私有を認めます。これによってそれまでの氏族単位の母系集団に初めて私有意識が芽生えます。しかしその段階ではまだ母系社会は温存されています。
父系転換が決定的になったのはその後直ぐに登場した分家移住制度(分異の法)です
秦は既に鉄器による農耕が始まっており、これによって農地拡大が可能になると、領地拡大の勢いも相まって、氏族の次男以下に地方の土地を与え、あたらな耕作地を開発する担い手としました。それによってそれまでは土地と集団が一体化していた共同体に亀裂が入ります。
この分家移住制度は施策の狙い通り、当初は耕作面積を拡大させます。秦の領地拡大によって氏族は方々に散らばり、それぞれの土地で小集団化して存続する事になります。またこの移動、分家によって知らない土地へ移住した小集団(=家族)は、さらにその子孫をその土地あるいは別の地域の農地で、分家して新しい土地を開墾します。
成人男子を次々に分家させる秦の相続制度は、同時に婚姻制度も規定しました。嫁取り婚の始まりです
これによって必然的に家族から女が出されることになります。(相続を継続させ、家族私有地の拡大を期待される男は集団内に温存される)この制度の施行によって、周代に秦支配である中国華北地域は、ほぼ父系社会が大衆まで拡大し、定着しました。そして秦が王朝になると、父系社会が全国に拡がっていきます
こうして母系社会から父系社会への転換は以下の流れで固定化されていきます。
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これは周時代に起きた母系制から父系制への大きな流れです。
周代には、中央から派遣された官吏からの徴税圧力に耐えられなくなった農民が家族単位で夜逃げするという事態も発生していることから、その時代には確実に共同体は解体され、父系に転換していたと思われます。
(※共同性が残っていれば邑の中の一家族だけが苦しいということは有り得ず、夜逃げ=母集団が解体され、家族単位までバラバラになった証です。)
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その後も、中国の集団は大家族単位の父権社会を強固に維持していく事になります。秦、漢時代を通じて、大衆の強制移住、集団移住は繰返され、土地に根ざさない移動の民、中国の大衆の意識を作り上げていきます。しかし移民であるが故に常に移動した先での外圧は高く、家父長のリーダーシップが集団の命運を決定付けました。その意味では中国にとっての家族とは国家からの強烈な法制圧力、理不尽な強制力への大衆側でとった唯一の抵抗手段でした。
– – – – – – – – – – – – –
今回は共同体が家族単位まで解体される流れを押さえました 😛
次回は、家単位までバラバラにされた中国人が、なぜ親族の結束や自己中さを強めることになったのかを解明したいと思います
お楽しみに~

投稿者 pingu : 2011年12月01日 List  

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