2011年12月25日
2011年12月25日
「日本と中国は次代で共働できるのか?7」~鉄によってもたらされた中国の市場~
シリーズ「日本と中国は次代で共働できるのか?」の第7回目は、シリーズ第2回につづく市場編です。 8)
前回の記事で、夏・殷の時代に交換がはじまっていたことを書きました。特に殷の遺跡では、さまざまな異国の産物(青銅器、子安貝、軟玉、象牙など)が発見されており、殷の交換対象の広さを伺うことができます。また、青銅器については、王朝の絶大な権力を象徴するかのように大量に出土しており、殷人たちが、青銅器を農工具として使ったのではなく、もっぱら祭祀・武器・装飾用として利用していたことが分かります。つまり、殷人たちは、交換で得た青銅器等の装飾品を王朝の権威を誇示するための統合の道具として利用していたのです。
また、殷墟の墓地群から出土した青銅製の祭器・武器・装飾品のおびただしい数から、国家をあげてその原料である銅の輸入に取り組んでいたことがわかります。そして、それを可能にしたのが殷王朝に雇われた移動や情報収集に特化した交換集団だったのです。殷の交換は遠方まで出かけその土地の珍品、貴重品をかき集める方法で、おそらく交易や市場という段階ではなく、その前段階だったと思われます。
その殷代の交換集団は多くの物流ネットワークを持っており、彼らが周代で市場の原型を作っていきます。どのような変化をとげたのか、今回はその辺りから書いていきたいと思います。
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(カッピカピ)
投稿者 hi-ro : 2011年12月25日 Tweet
2011年12月25日
「支配者から見た属国意識」~4.支配者が作り出した天皇主義3
十六弁八重表菊紋 古代朝鮮半島勢力図 伊勢神宮宇治橋大鳥居
次号より続きです。天皇制、天皇主義は、北方遊牧騎馬民族である扶余(ツングース)系が、半島の土着の倭人系(韓人)や中国の農耕部族を征服・混交を繰り返しつくられ、伽耶王国(そのうちの金官伽耶等)の王族・貴族より、日本に伝わったとしました。これには、いろいろと異論がありそうです。例えば、支配・侵略目的で来た列島への渡来人が持ち込んだのか?それを阻止しようと国家体制を固めるために作られたものか?はたまた、天智天皇(百済)あるいは、天武天皇(高句麗:蓋蘇文?)が持ち込んだか?天孫思想をもつ唯一?の豪族である物部氏(高句麗系 敏達天皇派)が天皇家(天孫族・天一族?)とともに持ち込んだのか?さらに、そのルーツのスキタイ民族系が持ち込んだのか?解明すべき点がかなりありそうです。(別号で検証したいと思います。 )
いずれにしても、大陸・半島では、南方系農耕民族の文化に、新しく北方遊牧騎馬民族の文化が塗り重ねられたことは確かであると思います。
さて、そのおおもとのツングース系やモンゴル系、チベット系に代表される遊牧騎馬民族がどのような集団の統治の仕方や部族の統治の仕方をしていたのでしょうか?また、彼らはどういった思想をもって、半島や大陸で農耕民を支配したのでしょうか?そして、やがて、彼らの意識が変遷しながら列島に伝道されましたが、どのように変わっていったのでしょうか?そこを解明したいと思います。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
投稿者 2310 : 2011年12月25日 Tweet