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「日本と中国は次代で共働できるのか?7」~鉄によってもたらされた中国の市場~

シリーズ「日本と中国は次代で共働できるのか?」の第7回目は、シリーズ第2回につづく市場編です。 8)
 前回の記事 [1]で、夏・殷の時代に交換がはじまっていたことを書きました。特に殷の遺跡では、さまざまな異国の産物(青銅器、子安貝、軟玉、象牙など)が発見されており、殷の交換対象の広さを伺うことができます。また、青銅器については、王朝の絶大な権力を象徴するかのように大量に出土しており、殷人たちが、青銅器を農工具として使ったのではなく、もっぱら祭祀・武器・装飾用として利用していたことが分かります。つまり、殷人たちは、交換で得た青銅器等の装飾品を王朝の権威を誇示するための統合の道具として利用していたのです。
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 また、殷墟の墓地群から出土した青銅製の祭器・武器・装飾品のおびただしい数から、国家をあげてその原料である銅の輸入に取り組んでいたことがわかります。そして、それを可能にしたのが殷王朝に雇われた移動や情報収集に特化した交換集団だったのです。殷の交換は遠方まで出かけその土地の珍品、貴重品をかき集める方法で、おそらく交易や市場という段階ではなく、その前段階だったと思われます。
 その殷代の交換集団は多くの物流ネットワークを持っており、彼らが周代で市場の原型を作っていきます。どのような変化をとげたのか、今回はその辺りから書いていきたいと思います。
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(カッピカピ)


①王の権威付け為の交換の担い手から解き放たれた殷(商)人たちの行方は?
 殷を倒した周は、一系の血族組織を中心とした国家づくりを目指し、殷系諸邑制国家をことごとく解体しました。そして、その主要な地には一族・同姓のものを、小規模な邑には功臣にあたる異姓の諸侯を派遣してその地に住まわせ、その地の民と田畑の新たな支配者(諸侯)にすると同時に、その諸侯に周囲の土着の諸族が住む小邑を支配させる体制をとったのです。
 この分権的要素をもった諸侯国は中国各地へと分散し、それぞれの間で交流をもち、交換関係を進展させ交易へとその形を進化させていったと考えられます。そして、この時代の交易に大きく従事したのが周に敗れた殷(商)の残党たちだったのです。
 殷の交易者たちは各地の新しい支配者のもとに散り、自らを商の人と名乗り、交易に従事しました。その行いが、交易を商の人の生業、つまりは商業と呼ぶようになり、これにたずさわる人を、その出身に関わらず、商人と呼ぶようになったのです。殷を商と呼称するようになったのも周の時代以降なのです。
 ただ、この時代の交易の発注者は依然として、王朝や諸侯であり、まだ管理交易の性格を強く持っていたと考えられます。
 私的商人がはっきりとしたかたちで登場し、彼らが私人のために各地の特産物を流通させるようになったのは、鋳造貨幣がつくられた次の春秋・戦国時代に入ってからであり、周代はその準備期間だったのです。
②春秋・戦国時代に入って一気に市場が拡大したのはなんで?
 交易ネットワークが広がったことによって、諸侯国は活性化し、支配者たちは与えられた土地の経営・開発を競い合いました。その結果、農耕の技術水準が高まり、農耕地域の拡大が一気に進み、各諸侯は徐々にその独立性を強めていったのです。そして、この動きを加速させたのが、鉄器による農具の発展だったのです。
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 鉄の農工具は、それ以前の石や木、あるいは青銅の農耕具に比べてはるかに優れ、深耕・除草・土木作業を容易にしました。この鉄器による農耕革命によって、各諸侯が邑制国家として独立することが可能になったのです。そして、邑制国家の支配者たちは鉄器を手に入れるために、鉄の交易ルート開発を競いあったのです。その結果、市場の組織化が進み、鉄器の売買が盛んに行なわれ、それを引き金に青銅製の鋳造貨幣があらわれるようになったのです。
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 つまり、鉄器の出現が各諸侯による領土拡大合戦の火付け役となり、同時に市場の組織化、活性化を呼び起こしたのです。鉄器は、この時代に各地が進めていた大規模灌漑農耕に欠かすことの出来ない最先端技術であり、農民にとっても農地拡大を目指すために必要不可欠なものだったのです。
 しかし、こうしてみてみると、古代中国市場で出回ったもの(鉄器や銅、手工業品)は、西洋の市場で売買された貴金属や絹織物etcといった高級品と比べて、かなり地味だったことに気付きます。
③西洋での市場拡大の原動力と中国のそれとの違いは? 
 ここで、西洋での市場の起源を振り返ってみたいと思います。以下、なんで屋劇場『金貸し支配とその弱点』1~市場の起源、原資拡大の方法、その真実の姿~ [4]からの引用です。
                 

2. 原資拡大の方法
・ 国家に対する寄生虫である市場がその資金源を拡大させていく方法は、概ね、以下の4つがある。
                    
・略奪・・つまり、武力にものを言わせて、財を奪い取るという方法だが、これは市場の初期形態にとどまらず、近代市場から現代のグローバリズム資本主義までをも貫く、極めて本質的かつ普遍的な方法論のひとつである。近代市場はアメリカ大陸とアジア大陸の豊かな冨の収奪の上につくられたし、イラク戦争は、アメリカによる石油資源の収奪に他ならない。
                  
・騙し・・貴金属をはじめとする市場商品は突き詰めると、なくても困らないものである。しかし、それが希少価値etcといった美辞麗句の下では、圧倒的に価値の高いものとみなされ、幻想価値→幻想価格が形成される。人々が孕む性幻想や快美欠乏を梃子として作り出される市場商品と農産品の価格格差。それ自体が騙しであるが、この騙しこそが市場拡大の固有の原動力である。

              
 ここから分かる事は、西洋における市場拡大の原動力は『騙し』であり、いかにして幻想価値を高めるかが商人の腕の見せ所だったということです。だからこそ、西洋市場で出回ったものは、貴金属や絹織物etcといった高級品であり、取引相手は普段の生活に全く困らない、貴族階級だったのです。
 それに対し、中国の市場で出回ったものは鉄器という生活に不可欠なものであり、取引相手は庶民にまで及んでいます。つまり、中国での市場拡大の原動力は西洋のような『騙し』ではなく、現実に広がった開墾さえすればいくらでも可能な『農地拡大への可能性』だったのです。
 ではこの違いはどこからきたのでしょうか。
 一つは、土地の豊かさの違いです。「日本は中国と共働できるか?」5~中国の自然外圧は豊か?厳しい? [5]の記事にもあるように、中国は恵まれた地勢と気候、そして開墾が容易な黄土を有しています。それゆえに、必要な鉄工具さえあれば、家族単位でも農地を開墾し、収穫=冨を得ることが出来るのです。裏返せば農地拡大合戦が繰り広げられ、それに呼応する形で市場が形成されました。従って市場の原資となる交易対象は西洋より広く、また実質的な商品に絞られるのです。
 二つ目は、鉄の作られ方と使われ方です。西洋では、鉄器の製造は鍛鉄からはじまり、鋳鉄に移行したのは13世紀以降ですが、中国では既に紀元前2千年前から鋳造からはじまっています。鋳鉄は硬いがもろい性質をもっており、それは武器よりも農工具に適していました。さらに鋳鉄は大量生産が可能であり、中国社会の農耕技術の発展に大きく貢献したのです。
 この黄土という豊かな土地と鋳鉄という製法を得た中国は、黄河流域を中心に、鉄器という商品を媒介にして市場を拡大・活性化していったのです。戦国末期には諸侯を上回る富豪商も登場するなど、西洋を上回る活況を市場は呈しまいした。それは商人の人数や利益が大きかっただけでなく、西洋の市場が王族に限られた幻想商品の段階に留まっていたのに対して、中国では大衆レベルまで裾野が広がっており、その商品の中心は生活必需品に近い鉄や塩といった、いわば「実質市場」に終始していたからだと考えられます。つまり、中国の市場は「幻想市場」を経由せずいきなり「実質市場」から始まったのです。
 しかし、西洋をしのぐ勢いで活性化した中国の市場は、秦の登場によって一変します。
 秦は周代から既に武器を四川に調達しており、それは国家が主導して市場を動かしていました。
 その後の秦の中国統一以降、漢に至るまで中国の鉄や塩は国家が独占します。
鉄官を各地に配し、国内の鉄は全て国家が抑えます、同時に商人は懲役や労役に従事させられ、民間市場はあっという間に縮小、市場を国家が仕切る事になります。
 よく、中国は市場国家(参考投稿:岡田史観を紹介~中国の本質は市場である [6])だと言われる説がありますが、これは秦代以降の官僚主導、国家主導の市場経済を指し、その後の中国の市場と国家の関係の基礎がこの時代に形成されます。しかし、商人は抹殺されたわけでなく、国家の規制が厳しい時代には裏に潜り、規制が緩めば表に出てきます。宋代に再び活性化した民間市場はその流れの中で見る事ができ、現在成長する中国経済も国家市場から民間市場へ規制を緩めることで活性化しているに過ぎないと見る事ができます。
 しかしこの国家と市場の持ちつ持たれつの関係は一方的に国家が市場に搾取されてきた西洋に比べると異質で、良し悪しは別としてこれが中国市場のひとつの特徴であると言えるのではないでしょうか。 
 
参考文献:早稲田商学第388号
『市場と文明の進化誌②』 [7]
『市場と文明の進化誌③』 [8]

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