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2011年12月25日

「支配者から見た属国意識」~4.支配者が作り出した天皇主義3

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 十六弁八重表菊紋  古代朝鮮半島勢力図  伊勢神宮宇治橋大鳥居
 次号より続きです。天皇制、天皇主義は、北方遊牧騎馬民族である扶余(ツングース)系が、半島の土着の倭人系(韓人)や中国の農耕部族を征服・混交を繰り返しつくられ、伽耶王国(そのうちの金官伽耶等)の王族・貴族より、日本に伝わったとしました。これには、いろいろと異論がありそうです。例えば、支配・侵略目的で来た列島への渡来人が持ち込んだのか?それを阻止しようと国家体制を固めるために作られたものか?はたまた、天智天皇(百済)あるいは、天武天皇(高句麗:蓋蘇文?)が持ち込んだか?天孫思想をもつ唯一?の豪族である物部氏(高句麗系 敏達天皇派)が天皇家(天孫族・天一族?)とともに持ち込んだのか?さらに、そのルーツのスキタイ民族系が持ち込んだのか?解明すべき点がかなりありそうです。(別号で検証したいと思います。
 
いずれにしても、大陸・半島では、南方系農耕民族の文化に、新しく北方遊牧騎馬民族の文化が塗り重ねられたことは確かであると思います。
 さて、そのおおもとのツングース系やモンゴル系、チベット系に代表される遊牧騎馬民族がどのような集団の統治の仕方や部族の統治の仕方をしていたのでしょうか?また、彼らはどういった思想をもって、半島や大陸で農耕民を支配したのでしょうか?そして、やがて、彼らの意識が変遷しながら列島に伝道されましたが、どのように変わっていったのでしょうか?そこを解明したいと思います。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
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◆前号より
4】騎馬民族から由来したとしたら、もともと、天孫思想をもっていたと考えられ、それによって統治を行っていたはずですが、どのような統治をしたのでしょうか?
です。
 まず、江上波夫氏の遊牧騎馬民族の史観を見てみましょう。これはとても説得力があるものであります。以前、当ブログであつかっていたものがありますのでご紹介します。江上波夫氏の三つの著書、「騎馬民族征服王朝説」「騎馬民族国家」「騎馬民族は来た!?来ない?!」からのご紹介です。
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農耕民と遊牧騎馬民
◆著書分析より明らかにする日本支配の始まり~6.『騎馬民族征服王朝説』にみる天皇家の血筋と支配の手口~

<江上氏の史観> 
その1、農耕民族は変わりにくい
一般的に見て農耕民族は、自己の伝統的文化に固執する性向が強く、急激に、他国あるいは他民族の異質的な文化を受け入れて自己の伝統的な文化の性格を変革させるような傾向がきわめて少なく、農耕民である倭人の場合でも同様であったと思われること。(『騎馬民族国家』より)
その2、騎馬民族国家も大和朝廷も二元性支配
●大陸における騎馬民族国家の支配体制(諸氏・部族・種族の編成の形)
①王家やその支族などを含めた王族系の氏・部族と、その姻族などを含め、異姓の氏・部族との並存的・分掌的存在
②征服王朝の本族(国族)と被征服異族(土着系)との、両面的ないし重層的存在が認められる。
●大和朝廷の氏姓制度
大和朝廷国家の創始・発展に、天皇氏(王族)とともに関与した諸豪族に、大別して二つのグループがあった。
①第一は、世襲の職能をもって朝廷に奉仕し、朝廷に直結ないし直属した、内的な豪族で、大和朝廷の軍事的・経済的基盤をなし、また大和朝廷を機能せしめたもの―主要には天孫天神系(姻族)。
②第二は、土着の豪族で、皇室や大和朝廷との関係は、婚姻関係などを通じて非常に親縁なものから半独立的なものまでいろいろな段階がある―大部分が国神系。
その3、騎馬民族は頭を使って間接支配する
遊牧民自身は家畜以外に何も持っていない。しかし頭を持っている。人間として人間たらしめるものは頭にあるんだ。いくら資源があったって、頭がなければだめなんだ。その働きに役立つのは情報と知識と判断力だ。それを持てば、簡単に世界は自分のものになる。初めからそれを知っていたのが遊牧民なんです。
 そのやり方は家畜との生活から学んだと思うんだ。家畜を持っていけば、草原があるかぎりどこでも住める。しかし、家畜をいかにするかということが問題だ。遊牧民でいるあいだは家畜をどうしたらいちばん良いかというと、これは自然の中にいた動物、そこの草を食っていた動物なんだから、自然にしておけばまちがいないんだ。不自然にしちゃいけない。自然地帯に行って、家畜を飼うようになると、今度はそこのやり方でやるわけだ。農耕地帯に入ったら、自分たちは王侯貴族的になるだけで、百姓になるわけじゃない。支配者になるだけで、そうなったらもう戦争はいらないんだから、戦争はやめたと言えばいい。ただ騎馬民族の格好を装っていればいい。
 そういう流儀で、やっていくんですね。農耕地帯に行ったら、そこの王侯貴族のように土着して、そこの文化を取り入れて、そこの人間になればいいんだ。何人も奥さんをもらって自分の仲間をふやす。自分の一族をふやすわけです。三代目には血も言葉もみんなそこの人間になっちゃうんですよ。そしてそれが転々と移動していくわけでしょう。
 父系の方は一貫していても、母系の方は何本にもなっちゃう。いろんな血も入ってしまう。モンゴルの諺に「骨は父方から肉は母方から貰う」とあるように。だから、外交も政治も学問も、みんなできるようになるんです。何代もやっていると要領をみんな覚えちゃう。彼らにはそういう伝統がある。
 経済と文化は、そこの土地の人間にみんなまかせちゃう。間接統治をやって、直接にはやらない。数代すると名義上の王家になっちゃう、天皇のように。トルコでもどこでも同じことですよ。たとえばカリフはイスラム帝国の名義上の首長で、実際の支配はスルタンにやらせておいても、王位を簒奪(さんだつ)することはない。
 遊牧騎馬民族出身の王侯・将軍たちは何をやるかというと、外交、警察。広大な地域を支配していますから、軍隊といったって、警察ですね。各地に小さい部隊を置いて。これはもう、どこでもやっていますよ。チンギス=ハン軍隊の子孫がアフガンにモゴール族として現存したり、乾隆帝(けんりゅうてい)のときの清の遠征軍の子孫が新疆に残っていたりしています。
 彼らの中央政府の構造は簡単明瞭なもので、遼(契丹(きったん))なんかはっきりしているんですよ。軍事・警察・外交は北院の専管で遊牧民系がやる。南院というのは経済・統治ですね、漢人・渤海(ぼっかい)人などの農民系に統治と経済は全部まかせるんです。
 しかし、契丹国も中期までいったら、両院ともほとんどその土地の人にまかせてしまう。自分たちがその土地の人間になってもいいという覚悟ができたら、はっきりそうしてしまう。そしてそこの文化をめちゃくちゃ盛んにさせるんですよ。康煕(こうき)・乾隆(けんりゅう)時代になると、まったくそうですね。全部まかせちゃって、今までの中国の歴代の大王・皇帝たちにもできなかった大文化事業を興すわけだ。
 『康煕(こうき)字典』なんで、中国の字引のものすごく大きいものを作らせたり、中国のあらゆる文化を集めた『古今図書集成』を作ったり、あるいは『四庫(しこ)全書』を編んでみたり、あくまで自分たちは、あなたがた地元のために、平和のために、やるんだという大宣伝をするんですね。
 それがやはり騎馬民族の生き方であって、アラブでもどこでもそうですよ。支配したら今度は大がかりな文化事業をやる。だからアラブ文明とか、モンゴル文明とか、ペルシャ文明とかできるわけです。
 古代は宗教建築の石窟・寺院・神殿・教会やペルセポリスの宮殿、ペルシアの王陵・ヴェーダ・旧約・新約・仏典・コーランといった宗教経典。壁画・磨崖(まがい)彫刻・動物意匠の金属器といった美術がそうだし、中世になりゃ、天文・暦学、医・薬学、地理・哲学・歴史といった科学全般、大蔵経(だいぞうきょう)・地図などの出版と、みんな騎馬民族が主役なんだ。
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 もとはといえば、一介の、馬に乗って、かっぱらいやって、家畜を引き連れて草原をさまよっていた連中なんです。三、四代前までさかのぼれば、みんなそうだった。ところが、そういう人たち、騎馬民族が来なければ、知的な国家はできない。純農耕民族はどんなにやってもピラミッドのエジプトやインカ帝国のように知的な国家にはなれないんですよ。
 今までの世界の歴史家は、騎馬民族というものは全部文化の低い未開人(バルバロイ)で、都市もなければ文字も持たない、ただ戦争ばかりして、やかいだと。征服するのはなかなかむずかしいけれども、文化も何も持たないから、ほったらかしておけばいいのだと。そういう歴史観が、ヘロドトスだってそうだし、中国の『史記』の司馬遷だってそうなんです。

 けれども、そういうやっかいな未開人が、農耕地帯に入ってきて、大世界帝国や大文明をつくるのはどういうことかと。しかも、そういうことが何百年とつづいて、むしろ世界史を特徴づけているのはどうしてなのか、と私は考えたわけです。
(『騎馬民族は来た!?来ない?!』より)

 この遊牧騎馬民族の世界観を見ると、まっとうな見解であるとも思われます。古来、西アジアでは、<「農耕民は本能的に柵をめぐらし、遊牧民は本能的に柵を超えてゆく」という格言があるそうです。当然、土地に依存しない遊牧生産には柵や国家などどうでもよいと思えます。
 しかし、欠落している視点があります。遊牧騎馬民族が大文化事業を起こし、歴史書や建造物をつくらせるのも、掠奪・皆殺しをするのも、農耕民の上に君臨し、騎馬という武力をもつのも、全ては、縄張り闘争に端を発する力の原理で集団や民を支配・統合しようとするためです。
 その根は、性闘争本能(=縄張り闘争本能)からくる自我(他者否定と自己正当化)であり、遊牧民は、私権集団であるということです。遊牧部族は、土地をもたない根無し草で、共認原理で統合されていた農耕民の安定や秩序が保たれず、共認充足しえない、不安定な集団構造をしており、不全発の統合観念を持っていると思われます。
 しかし、農耕民族と融合することを決めた遊牧民族は、間接統治を行い、二元性をもって支配するという構造に変化しています。上記にもあるとおり、地域経済や文化を土着の農耕民に任せ、外交と警察をもって支配するという間接支配の構造は、かつてのユーラシア大陸の戦争の皆殺しの掠奪 から変わっており、農耕部族を統治する中で、このような手法を学んだのだろうと思います。それは、牧畜、遊牧の家畜を手なずけるという経験(家畜集団のボスを従えれば、その他の家畜が追従してくるという集団追従本能を持っていることを体感的に実感)していたと思います。
これは、遊牧民族が南方系農耕民を支配する構造と同じであり、部族・氏族共同体の長を手なずければ、武力を持たない下層の農民達は、追従してくることをよく知っていたからです。
 日本神話から天皇制に繋がる特徴は、万世一系(男子相続=父系制)、天孫降臨の天孫思想、現人神崇拝、太陽神の代表される天神思想、三種の神器、神社などです。このような超越存在としての天皇の権威付けと集団統治の方法は、上述したような遊牧騎馬民族から発したものであり、もっと旧くは、シュメールやスキタイの文化から発したものであると思われます。余談ではありますが、日本で中央集権国家への業績をのこし、日本書紀編纂や中央集権国家に繋がる大宝律令を制定した天武天皇(大海人皇子 高句麗系)は、執政天皇として、豪族の藤原氏(中臣鎌足(=百済使人・智積)は、高句麗系百済人)とともに、遊牧騎馬民族の出身か、伽耶系金官伽耶の高句麗系の王族?あるいは、彼らの影響を受けた韓半島の王族・貴族の出との説もあり、納得するところです。
 さて、更に、半島から列島に渡った渡来人から、遊牧騎馬民族系のこのような思想が支配目的で1600年前に伝わってきたと一旦すると、日本列島に持ち込まれて、なにがとう変わったのか?が問題となります。
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雄略天皇と武烈天皇と天武天皇
5】属国意識の強い支配者の信奉対象が、日本に来て、「力」から「権威」になぜ変わったのか?天皇制とは、騎馬民族のもともとの発想をそのまま列島に転写?半島の南方系農耕部族の統合の仕方で学習して列島に渡来したのか?
ですが、
 まず、大陸や半島で遊牧騎馬民族が農耕民族を支配する中で、概ね、天皇制のような統合観念の素養がすでに出来上がっていたと考えられます。よって「武力」→「権力」に変化したのは、列島で変化したのではなく、大陸や半島で変化したのだろうと考えられます。
 しかし、半島の王族・貴族たちが列島に渡来した時代は、既に、弥生人の共同性・受け入れ体質を色濃く残す部族・氏族が力をもっており、強固な自立性の高い共認統合による部族連合が出来上がっていたと思われます。小集団で渡来した半島の支配民は、完全に共同体を残すという統治方法を取らざるをえなかったのだろうと思います。だから共同体を温存する形で統治したのだろうと思われます。
 それだけではなく、それ以前に半島から移住した氏族が、既に大きな力をもっており、半島から移住した各王族・貴族らをまとめる為には、中国や強国への朝貢意識に見られる属国意識や屈属意識を利用して、超越存在たる天皇を最高権威として位置づけ、土着氏族の安定・秩序期待の要請もあり、支配氏族間の闘争・戦争や部族間の掠奪を止揚することを考えたと思われます。
 こうして、下も上も秩序安定収束を形成し、古事記、日本書紀のへ編纂を契機に、権威という支配観念が成立して、7Cから8C頃までに倭国→日本として中央集権国家となっていったと思われます。
 その後、天皇の権威を傘にした、藤原氏を初めとする支配豪族は、実質の支配権力を天皇から剥奪し、己の思うとおりの政治や統治を進めていったのだろうと思います。それは、天皇を天孫とする神話と神社を使って、民を観念支配して、豪族の争いを止揚し、執政と権力を手に入れ、この天皇制を固めていったものと思われます。かつて、「鼠は穴に伏せて生き、穴を失って死ぬ」という古人大兄皇子の寄生虫のような蘇我入鹿への言葉が象徴しているとおり、蘇我氏のもっていた「強い天皇は必要ない」という意識が豪族達のどこかにあったことを物語っています。
 
 このような天皇制は、支配氏族が権威の傘下に入り、実質権力を握る隠れ蓑ともいえます。しかし、それだけでは、1500年も曲がりなりにも連綿と継承された根拠にはなりえません。そこには、日本人の秩序・安心期待と共同体の共認充足、縄文人→弥生人の受け入れ体質があったからこそ、この天皇制は、いままで継続してきたのだろうと思います。

投稿者 2310 : 2011年12月25日 List  

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コメント

いつも感じていたこと。賢治は田中智学の右翼的な世界に一度はどっぷりつかりも、帰って来た。自然や物語のちからが彼を戻したのだと思っていた。そこにさらに、縄文の意識というのも、根底にある外せない核と共感しました

投稿者 はたなかきみえ : 2012年10月27日 15:51

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