「支配者から見た属国意識」~2.朝鮮支配者が来る前夜の状況 |
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2011年12月06日
弥生時代の解明2~倭人は、どのように縄文人と融合していったか?
前回の記事『弥生時代の解明1~倭人は、なぜ縄文人に受け入れられたのか?』で明らかにしたように、避難して来た倭人たちは少数渡来でした。少数の渡来人が水稲稲作という安定した食料供給を背景に、高い人口増加率(≒寿命の長期化)を保持し、人口増および人口比の逆転をもたらしました。それは縄文系の集団と渡来系の集団とでは人口増加率が違うはずだという中橋孝氏の考え方を踏襲しつつ、国立民族博物館の新年代観を取り入れて試算された下記の図からも、読み取れます。
(サイト「日本人の源流を探して」 より)
詳細は当ブログ『「支配者から見た属国意識」~2.朝鮮支配者が来る前夜の状況』もご覧ください。
では、このように年平均50人~100人という少数で渡来した倭人たちは、どのように日本列島に広がっていったのでしょうか? 稲作の伝播状況から見ていきます
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稲作はどのように伝播していったか?
最新の稲作の伝播時期は、藤尾慎一郎氏によると以下のようにされています。
3000年前 九州北部で水田耕作が開始
2700~2600年前 九州南部、九州東部、西部瀬戸内
2600~2500年前 近畿(神戸市付近)
2500年前 奈良盆地
2500~2400年前 伊勢湾沿岸地域
2300年前 日本海側を東北北部まで北上し、
青森県弘前地域、仙台、福島県いわき地域
2100年前 関東南部
(藤尾慎一郎著『<新>弥生時代』より)
稲作伝播は前回の記事『弥生時代の解明1~倭人は、なぜ縄文人に受け入れられたのか?』によれば三波あります。
第一波:3000年前の江南人(呉越になる前の倭人)
第二波:2450年前の呉人
第三波:2100年前の越人
(呉越の人も江南人ですが、第一波の名称と分ける為、今回江南人という呼称は呉越の国になる前の長江文明からの移動民と設定します。)
彼らが移動してきた年代やそこで残していった史料を見ていけば、稲作伝播の時期やルートを正確に押さえられるのではないか? そしてそこから弥生人の主流となった集団が押さえられるのではないか? そういう考え方で、今回は藤尾氏の稲作伝播時期やルートを修正、検証していきたいと思います。
まず最新の考古学発見によってこの稲作伝播時期が大きく見直しを迫られています。
つい先日(11月9日)新聞発表されたばかりの記事です。
奈良県御所(ごせ)市の中西遺跡で、弥生時代前期(約2400年前)としては全国最大となる約2万平方メートルの水田跡が確認された。県立橿原考古学研究所が8日発表した。稲作が始まった初期の時期に約2千枚の水田が整然と並んでいたとみられ、「高い計画性と労働力を持った集団の存在をうかがわせる」としている。(るいネット『弥生前期(2400年前)の全国最大の水田跡(2千枚)発見で弥生時代は数百年早まるのでは』より)
近畿に稲作を伝えたのは、江南人!
この史実に従えば、近畿の中心である奈良に既に紀元前400年には整然とした稲作生産が行なわれていたことになり、少なくともそれから数百年(最大300年程度遡る)前の紀元前700年、少なく見積もっても紀元前600年頃には近畿に稲作が伝播していた可能性があります。そうするとこの最初の近畿の巨大水田跡の伝播者は誰になるのでしょうか?
越に追われた呉人が来たとすれば、呉越戦争の後ですから、最速でも北九州に紀元前450年以降に渡来となりますが、畿内に移住してわずか50年で巨大水田を作る事は不可能でしょう。また、直接畿内に最初から入ったとしても、50年間で縄文人と融合し2万平方メートルの水田は作れないのではないでしょうか。そう考えると、畿内のこの巨大水田は第一波のグループ(江南人)が北九州から移動しながら伝えて作られた水田邑であることはほぼ確実です。
つまり、紀元前1000年に北九州に稲作を伝えた江南人が、縄文人と混血しながら300年から400年かけて近畿に水田を伝播させたと考えるのが妥当でしょう。彼らの混血の様子を続いて見ていきます。
渡来した倭人だけで稲作を開始したのではない!
3000年前に九州北部で水田耕作が開始されたことを示す菜畑遺跡(湿田)では、
菜畑遺跡ではすべて縄文文化に由来するものだった。皿や浅鉢、甕、壺といった土器の類は、皆、典型的な「縄文土器」であった。また、「日韓交渉の考古学」(小田富士雄,韓炳三/編)の記述でも、–菜畑遺跡の晩期後半の石器には大陸系と縄文系の2系統があるが、量的には後者が圧倒的に多い。–としている。
すなわち、菜畑ムラでは、従来どおりの西北九州縄文人が生活しており、そこに「水田稲作技術」だけが新たに導入された、という印象なのである。とても南部朝鮮人が集団で菜畑ムラにやって来て、水田稲作を営んだという痕跡はない。(サイト「日本人の源流を探して」より)
また、2800年前の環壕集落をもつ板付遺跡(乾田)では、
縄文土器に代わって焼成温度が高く、文様の少ない素焼きの所謂“弥生土器”が誕生する。弥生土器は朝鮮南部の無文土器から形や製作技術を取り入れて造られた。また、江辻遺跡では環壕の中に朝鮮半島南部からの渡来人が独立した形で同居していた。(「松菊里型住居」)
遠賀川式土器を作り使った人々とは先着の渡来系弥生人乃至その子孫(含む縄文人との混血)であり、あるいは新規に渡来してきた人々であった。(同じく「日本人の源流を探して」より)
上記から分かることは、日本における稲作の開始は、渡来人が日本にやってきて、彼ら単独で始めたものではないということです。
土器の分布で分かる、江南人と呉人の伝播ルート
呉人も弥生時代を構成した主力ですが、彼らが来るはるか500年前に既に西日本には江南人と縄文人が築いた弥生村があったのです。
では、第二波の呉人は何をしたのでしょうか?
彼らが日本に渡来したときには既に水田がかなり各地で行なわれており、伝播するというより彼らが耕作できる場所を選び、定着していくことになります。
当然北九州、瀬戸内海、近畿に定着しますが、同時に第一波がまだ到達していない東日本に手を広げます。2000年前に青森で4000平方メートルの水田跡が発見されていますが(垂柳遺跡)、渡来してわずか300年で本州の東の端まで稲作を伝播させた事になります。藤尾氏の記述によれば2300年前には青森以外の東北地方にも稲作が伝わっています。
突帯文土器の分布地図
突帯文土器と遠賀川土器
この江南人と後から入ってきた呉人との関係を見るうえで土器の分布がわかりやすいです。
弥生時代最初の土器である突帯文土器は近畿までしか広がっていませんが、その後の遠賀川土器は青森まで拡大しています。つまり、突帯文土器のエリアが江南人伝播地域であり、遠賀川土器の拡大エリアが呉人が広げたの稲作地域と見る事で整合されるのです。
それはそれぞれの土器年代とも整合します。突帯文土器は紀元前8世紀から確認されていますが、遠賀川土器は紀元前4世紀から各地で見られており、その分布範囲をみれば彼らの足跡が伺えます。また、呉人はなぜ寒地である東北地方にまで行けたのかについては、彼らが倭人の中でも最も北に居住していた為、北方適応しやすかった、あるいは北方適応した苗を持ち込んだ可能性が考えられます。いずれにしてもそれまでの江南人が行かなかった地域に足を踏み入れたのは呉人の系統だったと思われます。
青銅器を持ち込んだ呉越の人々は、武器を祭祀具に変えて融合した
また、呉人が持ち込んだのは稲や土器だけではありません。弥生時代の中期から登場する青銅器です。銅剣、銅矛の青銅器は紀元前4世紀から日本に渡来しますが、その銅の成分分析から江南地方であることが確認されており、九州一帯、さらに西日本に青銅器を最初に持ち込んだのは呉人だったのです。ただ、中国内では武器として使われた銅剣が日本では祭祀具として使われ大型化し、祭壇に祭られました。青銅器を中心に、武器としてではなく祭祀具として縄文人に融合した呉人の取った手法は、いかにも日本的、縄文的融和手法であると言えるでしょう。武器を平和の道具に変えてしまったのです。
さらにその祭祀具としての青銅器をより明確に位置づけ、日本で勢力を拡大したのが第三波の越人です。彼らは銅鐸として青銅器を拡大し、先に来ていた呉人や江南人の弥生村と並存し、やがて弥生人として連携するようになります。これが弥生時代の銅剣、銅鐸の文化圏です。これについては当ブログで以前調べた記事『縄文晩期とはどのような時代か?2~渡来民との融和的な共存がその後の舶来信仰、平和的外交の基礎に』がありますのでそちらも併せてご参照ください。
銅剣、銅矛、銅戈と銅鐸の分布
新年表!
藤尾氏の年表を当ブログとして書き換えてみました。三波の影響を色分けで示します。
3000年前(又はそれ以前)
寒冷化、戦乱化で押し出された長江中流域から江南人が沿岸へ移動、その一派がさらに日本に海洋伝いで渡来する。(第一波)
菜畑遺跡、板付遺跡
3000年前~2700年前
400年かけて九州から畿内に稲作伝播
土器は縄文土器から突帯文土器に転換
2400年前
奈良盆地に2万平メートルの水田跡 江南人の弥生村は畿内に広がる。
2450年前(以降の100年間ぐらい)
呉越戦争(紀元前475年)によって負けた呉の一派が北九州に到達。(第二波)
九州遠賀川周辺に巨大水田村を形成
銅剣、銅矛を伝播。墓には階層化の兆しが出る。
2300年前頃
佐賀県吉野ヶ里に弥生最大の大型集落を形成
最初の戦争が勃発している。
2100年前頃
青森に4000平方メートルの水田跡 (本州最北まで稲作伝播)
遠賀川土器が全国に拡がる
2100年前頃
越の人々が漢の強制移住によって出雲に到達。(第三波)
出雲中心に北陸、近畿に銅鐸文化圏を形成。越人の集団が祭祀文化として特化する。
既に呉人が形成していた銅剣文化圏と住み分けして列島に青銅器を中心とした2つの弥生文化が形成される。
1800年前頃
鳥取県 青谷上寺地遺跡において大きな戦争が勃発
(戦いによって殺害されたと思われる骨(109体)が大量に出土)~朝鮮系渡来民との衝突か?
渡来人三波の渡来状況
またまた会員のYORIYA氏に作っていただきました!ありがとうございます
以上見てきたように、稲作伝播、土器伝播、銅鐸伝播を見ることで、弥生時代に渡来した三波が日本でどのように縄文人と融合し、影響範囲を拡大していったかを説明することができます。
そしてその三波は大きくは先に渡来していた先住者に配慮し、住み分け、争わずに共存する方法を模索しました。後から来た渡来民の方が文化的には進んでいましたが、それを支配の為ではなく融合の道具として用いた事は特筆すべきことだと思います。
大きく見れば弥生時代の戦争は後期になるまでほとんど発生していません。逆に言えば、弥生時代の間にある小さな戦争や小競り合いの跡は、それらの融合が徐々にうまくいかなくなるほど集団が大きくなり、また私権社会を経験した倭人が少なからず最後の方に入り込んだことを示しています。そして、朝鮮からの王族や支配者が渡来するようになると、その様相は大きく様変わりすることになります。
投稿者 mituko : 2011年12月06日 TweetList
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